あっけない最期とは? わかりやすく解説

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あっけない最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 13:36 UTC 版)

蘇峻」の記事における「あっけない最期」の解説

蘇峻陶侃温嶠らと長期渡って対峙していたが、お互いに決定機が見いだせずにいた。ただこの間蘇峻諸将東西各地派遣して攻掠させており、戦をすれば全て勝利を収めていた。これによりその勢い日を追う事に盛んとなり、討伐軍の兵はみな動揺し、その中には返ろう考える者さえあった。討伐軍にいる朝臣らはみな「峻は狡猾にして勇敢・果断であり、その衆はいずれ驍勇であり、向かうところ敵なしです。天が罪人を討つならば峻は滅亡するでしょうが、人の力をもってして除くことは容易ではありません」と勧めたが、温嶠は「諸君怯懦である。賊を称賛するというのか!」と怒った。だが、その後蘇峻連戦連勝であったので、温嶠もまたこれを深く憚り食料乏しくなってきた事もあって撤退考えようになった。しかし陶侃の軍の武将であった毛宝句容湖熟集積していた蘇峻糧食焼き払うと、これにより蘇峻の軍は兵糧欠乏してしまったので、陶侃らは撤退中止して交戦継続した同月陶侃水軍率いて石頭へ向かうと、庾亮温嶠趙胤もまた歩兵1万率いて白石の南より侵攻し蘇峻決戦挑んだ蘇峻は8千人率いてこれを迎え撃つと、さらに蘇峻の子である碩と匡孝が兵を分けて数十騎を率いて趙胤軍へ突撃し、これを撃破した蘇峻将士労いながら趙胤逃走するのを望見していたが、調子に乗って「孝もよく賊を破ったが、我には及ぶまい!」と述べると、兵の大半残したままで数騎のみを連れ追撃掛けて北へ向かい趙胤軍へ突撃仕掛けたが、突破出来なかったので軍を返し白木陂へと向かおうとした。だが、その馬が躓いた所を趙胤配下牙門の彭世・千らが矛を投げて蘇峻落馬させた。蘇峻はこれにより転倒してしまい、敵兵により首を斬られた。その体は切り刻まれ、骨は焼き尽くされた。これにより残兵もまた潰走した。蘇峻戦死聞いた討伐軍はみな歓喜の意を示した

※この「あっけない最期」の解説は、「蘇峻」の解説の一部です。
「あっけない最期」を含む「蘇峻」の記事については、「蘇峻」の概要を参照ください。

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