『Crazy 』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/07 10:17 UTC 版)
「パッツィー・クライン」の記事における「『Crazy 』」の解説
入院中で『I Fall to Pieces 』の成功をビジネス化することができなかったため、自身の復活を示す他の曲を探していた。ウィリー・ネルソン作曲の『Crazy 』を紹介された時、彼女はこの曲への嫌悪感をあらわにし、最初のセッションは成功しなかった。 オウエン・ブラッドリーの所有する、オープリーランドへの移転前のブラッドリー・バーン・スタジオとなるプレハブ小屋クォンセット・ハット・スタジオで行なわれた製作で、最初はネルソンのデモテープのような彼独特の歌い方で歌ってみた。彼女はこの独特なスタイルだけでなく、事故で負傷し高音が出づらくなっていたため、この曲は彼女にとって難しいと主張した。セッション中のこの問題はブラッドリーとの衝突を招いた。当時3時間で4曲録音するのが標準であったが、『Crazy 』1曲に4時間を費やした。最終的に彼女の歌声を伴奏にオーバー・ダビングさせることとなり、1週間後彼女の事故の負傷が良くなった頃に行なわれた。スタジオに戻った彼女は高音が出るようになっており、たった1回の収録で終わった。 大衆に受け入れられることとなった最後の版は彼女の個性を表現し、彼女のナッシュビル・サウンドへの懸念を払拭したものであった。この曲は彼女の表現力を示し、ネルソン版とは全く異なったものとなった。現在『Crazy 』は最終的に彼女の代表曲となったとみなされている。 1961年暮れまでに『Crazy 』はカントリーとポップのクロスオーバーで成功してトップ10にランクインし、彼女の最大のヒットとなった。その後Billboard Hot 100で第9位となり、カントリー・チャートとアダルト・コンテンポラリー・チャートでは第2位となった。1961年11月、この年の彼女のヒット曲を収録したアルバム『Patsy Cline Showcase 』が発表された。ロレッタ・リンは後にアルバム『I Remember Patsy 』の中で、クラインがグランド・オール・オープリーで『Crazy 』を初演し3度のスタンディング・オヴェーションを受けた日の夜のことを語っている。
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