『遼史』に見られる記述とは? わかりやすく解説

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『遼史』に見られる記述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 09:27 UTC 版)

カイドゥ・カン」の記事における「『遼史』に見られる記述」の解説

上のような『元史』・『集史』に見られるジャライル・ウルスの滅亡は、『遼史』に記される敵烈部の滅亡相当するではないか考えられている。『遼史』によると、1014年開泰3年)に敵烈部の夷剌(イラ)なる人物酋長の稍瓦(シャワ)を殺して叛乱起こし近隣部族もこれに呼応して遼の巨母古(クムク)城を攻め落としてしまった。これに対し、遼は叛乱鎮圧のために耶律世良派遣し、翌1015年夏にはまず敵烈部に呼応した阻卜部(ケレイト部)・烏古部タタル部)を撃破し、敵烈部をも一旦服属させた。しかし、遼の朝廷では敵烈部による叛乱再発を防ぐため内地移住させる計画唱えられており、耶律世良がこの計画実行する隙を突いて敵烈部は再び叛乱起こした再度叛乱懲りた耶律世良は敵烈部を再度撃破してその成年男子丁壮)を皆殺しにしてしまった。その後も遼軍の隙を突いた敵烈部の逆襲があり、将の一人勃括を討ち漏らすという失態があったものの、最終的に生き残りの敵烈部人をケレイト河沿いに移住させてそこに住まわせた。 このような、『遼史』に描かれる敵烈部の滅亡時代・場所ともにジャライル・ウルスの滅亡酷似しており、同一事件指していると考えられる。この事件で遼軍の攻撃逃れた敵烈部人=ジャライル人がモンゴル部への攻撃行ったのだとすると、カイドゥ・カン活躍したのは11世紀前半のことであったと見られる

※この「『遼史』に見られる記述」の解説は、「カイドゥ・カン」の解説の一部です。
「『遼史』に見られる記述」を含む「カイドゥ・カン」の記事については、「カイドゥ・カン」の概要を参照ください。

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