『容疑者Xの献身』をめぐる「本格」論争
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2005年末、『容疑者Xの献身』が「本格ミステリ」として評価され、同年の『本格ミステリ・ベスト10』にて1位を獲得したことに、推理作家の二階堂黎人が疑問を呈したことに始まる問題。 二階堂の主張は、「『容疑者Xの献身』は、作者が推理の手がかりを意図的に伏せて書いており、本格推理小説としての条件を完全には満たしていない(そのため、『本格ミステリ・ベスト10』の1位にふさわしくない)」というものであった。このことに関して二階堂のウェブサイトや『ミステリマガジン』誌上などに多くの作家や評論家が意見を寄せたため、本格的な論争となった[出典無効]。その過程で二階堂の説における矛盾や見当違いも指摘されたが、二階堂は自説を曲げなかった。 最終的には笠井潔などの有力者の多くが「『容疑者Xの献身』は本格である」という立場につき、さらには2006年5月に同作品が第6回本格ミステリ大賞を受賞したこともあり、現在では二階堂の意見は否定された形で議論が収束している。ただし、笠井は本作を「標準的な出来栄えの初心者向け本格」とした上で「探偵小説の精神的核心が無い」と批評し、ミステリ関係者が絶賛したことに手厳しい批判を向けている。同時に、メインの犯行とは別個の、道義的には遥かに悪質な行為がトリックの手段として淡々と描かれながら「感動的なラスト」と評されたことについても議論となったが、これについては北村薫が、ミステリあるいは小説を道徳論で論ずるべきでないとの立場を示している。もっとも、本作を感動的とか、涙誘うとかという風に位置づけたのは市場や読者の側であって、筆致はむしろ客観的である。 なお、作者の東野圭吾本人は、一貫して「本格であるか否かは、読者一人一人が判断することである」というスタンスを取っている。
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