『ゴモラの書』とヒルデブラントの改革
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「ペトルス・ダミアニ」の記事における「『ゴモラの書』とヒルデブラントの改革」の解説
この後、ペトルスは修道院に帰還した。レオ9世が教皇であった1050年ごろ、当時の聖職者の堕落ぶりをゴモラに喩え、痛烈に批判した論文(『ゴモラの書』“Liber Gomorrhianus”)を発表し、教皇に捧げた。この論文で、ペトルスは過剰な欲望に結びついた狂気が引き起こした、風紀の破壊と混乱の例として、同性愛の行為を批判した。この著作は大きな物議を醸し、少なからずペトルスへの恨みを生んだ。教皇さえ最初は称賛していたものの、説得されて、後には誇大な内容であると考えるようになり、教皇の冷淡さに対してペトルスは何度も手紙を送って抗議した。一方で当時、聖職売買による聖職者叙任の有効性が問題となった。ペトルスは1053年ごろ『秘蹟論』(“Liber Gratissimus”)を書いて聖職売買による叙任の有効性自体は擁護し、大いに論争が戦われた後、12世紀の間にこの問題が決着する根拠となった。 その反面、ペトルスは聖職売買自体には粘り強く反対し、聖職者の結婚にも厳しい批判を向けた。ウィクトル2世が教皇であった1055年6月、ペトルスはフィレンツェで開かれた教会会議に臨席し、会議では聖職売買と聖職者の性的堕落が再び批判された。
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