『いろは蔵武士鑑』における赤垣源蔵
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明治11年5月大阪いなり北門小屋で上演された人形浄瑠璃『いろは蔵武士鑑』には「赤垣源蔵出立の段」があり、戦後まで『忠臣義士伝』、『義士銘々伝』などの外題で上演されていた。作者は倉田千両であると伝えられる。 内容はやはり講談の銘々伝からの翻案で、赤垣源蔵が討ち入り当日に徳利を下げ千鳥足で兄の源左衛門の家にいき、母に主取りが決まったという。しかし本当は仇討ち前の暇乞いにきたと悟った母は源蔵を励ます為に自害。源蔵は今日が討ち入り当日である事を明かす。これを聞いた若党の曽平太(実は吉良の間者)は討ち入りの事を知らせるため家をでようとするが、源蔵は赤垣家伝来の槍で曽平太を突き刺す。この槍を選別として兄の源左衛門から受け取った源蔵は、武具を取り出して身支度する。それを見た母は喜んで息絶える。
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