「日本中央」という銘文について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 00:48 UTC 版)
「つぼのいしぶみ」の記事における「「日本中央」という銘文について」の解説
南部藩士の清水秋全は多賀城の碑文を見て「あれは単なる東西南北の遠近を記してるだけで尊く深い意味は無い。壺碑は南部坪村にあり日本の中央と云う意味深長なる銘文は誠に深い理由がある」とした。 「日本中央」という文面の問題は、喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。 「日本」という名前を蝦夷の土地に使っていた例があり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。津軽の安藤氏は日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある。ただこの場合、読みは『ひのもと』となる。日本の国号は最初は「倭」や「大和」であり、蝦夷地を「日本」や「日ノ本」と呼んだが、征夷後に大和は雅名をとって自分の国号とした。このことは『新唐書』『旧唐書』にも記述されている。
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