「我らのネリーのために」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 03:10 UTC 版)
「ネル・グウィン」の記事における「「我らのネリーのために」」の解説
1681年のクリスマスに、ネルはクリストファー・レンによるチェルシーのロイヤル・ホスピタルの設計書を見せられた。これは老兵達のためにチャールズ2世が作った診療所だった。ネルはチャールズ2世に、もっと病院を大きくするように勧め、チェルシーの自分の土地の一部を提供したと言われている。翌年の春には病院の礎石が据えられ、それから長い間、内戦の時の老兵やその後のオランダとの戦争で負傷した人々は、乾杯の度に立ち上がり「良き王チャールズと我らのネリーのために」と叫ぶのが常になっていた。 1684年の1月に、チャールズ2世はネルとの息子バーフォード伯爵チャールズ・ボークラークをセント・オールバンズ公に叙した。翌1685年2月6日、チャールズ2世は死去した。最後の言葉は「どうかかわいそうなネルを飢えさせないでくれ」(Let not poor Nelly starve)だった。チャールズ2世は死の直前に、ネルをグリニッジ伯爵夫人に叙する事を考えていたが、これは実現しなかった。ネルはチャールズ2世が死去してから元気を失い、劇場を時折訪れるだけになった。 ネルは1687年11月13日に死去した。死因はおそらく梅毒だったと思われる。ネルは家族、友人、使用人への遺贈を遺言していた。また、彼女はカトリックとプロテスタントの貧しい人々にも分け隔てなく金を寄付するよう、息子チャールズに遺言してもいた。ネルの葬儀には、ロンドン中からあらゆる階層の人々が集まった。ネルは、むやみに権力や富を求めようとせず、他の寵姫達とは違い、王に対しての貞節を守り、純粋に王の事を愛した。陽気だったネルは、上流社会、政治家、知識人、庶民など、幅広い人々から愛された女性だった。
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