「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:58 UTC 版)
「リチャード・アヴェドン」の記事における「「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」」の解説
1949年『シアター・アーツ』(Theater Arts )誌の編集者兼フォトグラファーとなり、舞台芸術を対象としたジャーナリズムの分野に活動の場を広げていった。 すでにファッション写真家としてはライバル誌『ヴォーグ』で大活躍していたアーヴィング・ペンと並ぶ若手のトップの座を手に入れており、1950年代前半にはドヴィマ(Dovima )、スージー・パーカー(Suzy Parker )、グロリア・ファンデルビルト(Gloria Vanderbilt )、オードリー・ヘプバーンらをモデルとして多くの名作を撮っている。1954年にディオールが「Hライン」を発表した際には、ディオールはこのデザインの着想をアヴェドン撮影によるマレラ・アネッリ(Marella Agnell :フィアット会長ジャンニ・アネッリの妻)のポートレートから得たと発言した。なお1953年12月に撮影されたアネッリのポートレートを1981年に50枚限定でプリントしたもののエディションナンバー44が2010年のクリスティーズのオークションで4万9000ユーロで落札されている。 当時金髪のモデルはあまり好まれなかったが、この頃から金髪のモデルを使ったファッション写真の撮影に本格的に取り組んでおり、サニー・ハーネット(Sunny Harnett )を起用してフランス各地で撮影を行なった。1954年にはかつてブラッサイやケルテースらが撮ったような「パリの夜景」を舞台にしたファッション写真に挑戦し、ハーネットをモデルにパリの通りを封鎖してフラッドランプの大がかりな照明を用いた作品を撮影している。この「パリの夜景によるファッション写真」に手応えを感じたアヴェドンは、彼としては異例となる同一モデルのパリ・コレクション撮影への再起用を決断し、1955年8月のパリ・コレクション撮影にドヴィマを呼んだ。この時、シルク・ディヴェール(Cirque d'hiver )で8×10in判カメラで撮影されたのが「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」と呼ばれる一連の作品である。この作品は『ハーパース・バザー』誌1955年9月号に掲載された。
※この「「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」」の解説は、「リチャード・アヴェドン」の解説の一部です。
「「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」」を含む「リチャード・アヴェドン」の記事については、「リチャード・アヴェドン」の概要を参照ください。
- 「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」のページへのリンク