北進
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9月15日に仁川上陸作戦が行われると、第8軍は攻勢に転移した。第6師団も翌16日に攻勢をかけたが、北朝鮮軍第8師団の抵抗で攻撃は進展しなかった。 9月21日夜、第2連隊長の咸炳善大佐は連隊の車両170両を集結させ前照灯を付け大声で軍歌を歌わせながら部隊を北進させた。そして前照灯を消して静かに後退すると、再び同様に車両行軍させこれを3回反復させると敵に大規模な増援部隊が前進していると思わせた。この策により鳥林山を無血で奪回した。この後、北朝鮮軍第8師団を撃滅。9月22日、軍威を奪還。師団は敗走する部隊を撃破しながら北上した。そして9月30日、原州に到達した。 10月5日、第6師団は38度線を越えて春川‐華川‐金化‐平康道沿いに進撃した。 10月10日、第2軍団の命令で元山に進撃し、10月14日に到着した。
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北進
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「クヌート1世 (イングランド王)」の記事における「北進」の解説
1016年初頭、ヴァイキングはテムズ川を渡河してウォリックシャーに襲撃したが、エドマンドの反撃の企図は失敗に終わったようである──年代記の著者は、イングランド軍が解散したのは、エドマンド王とロンドン市民が不在だったためだとしている。クヌートによる真冬の襲撃は、マーシア東部を北上しながら壊滅的な打撃を与えていった。また、軍の召集によりイングランド人が集められ、今度は王が彼らを出迎えたが、「それまでに何度もあったように無駄に終わった」ため、エゼルレッドは謀反の不安を抱えながらロンドンに戻った。その後、エドマンドは北上してノーサンブリア伯爵(英語版)のウートレッド(英語版)と合流し、マーシア西部のスタッフォードシャー、シュロップシャー、チェシャーに侵略した。おそらくエアドリックの領地を狙ったとされる。クヌートのノーサンブリア占領はウートレッドが帰国しクヌートに服従したことを意味したが、クヌートはウートレッドとその従者を虐殺させるため、ノーサンブリアの敵対者であるサーブランド(英語版)を派遣したと見られている。エイリーク・ハーコナルソンは、おそらくスカンディナヴィア人のもう一つの部隊と共に、この時点でクヌートを支援するようになり、熟達したノルウェーのヤールがノーサンブリアの統治を担った。 エドマンド王子は、ロンドン・ウォールに囲まれたその都市に留まり、1016年4月23日のエゼルレッドの死後、王に選出された。
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北進
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新たに設定された阻止攻撃作戦であるラインバッカー作戦には4つの目的があり、ハノイ及びその周辺から北東に伸びる中国国境方向に向かう鉄道橋およびその鉄道車両を破壊することで外部からの資源輸送を止め北ベトナムを孤立させること、主要な物資貯蔵施設とマーシャリングヤードを破壊すること、貯蔵・積み替えポイントを破壊すること、北ベトナムの防空網を殲滅(最低でも打撃を与える)することである。北ベトナムの海上輸送による輸入の85%近くがポケットマネー作戦により阻止されており、閣僚とペンタゴンはこれで社会主義陣営の最後の連絡線を切断できると信じていた。中国だけでも北ベトナムにこれまで平均で月あたり22,000トンの資源を2本の鉄道と8本の幹線道路で送っていたのである。 5月10日、ラインバッカー作戦は第77任務部隊と第7空軍の戦術航空機による北ベトナムへの大規模爆撃作戦から幕を開けた。この目標はハノイ周辺の鉄道操車場やタインホア橋、ロンビエン橋も含まれている。合計で414ソーティが作戦初日でおこなわれ(うち120が空軍で294が海軍である)、これを迎撃にあがった北ベトナム空軍との間でベトナム戦争最大規模の空中戦がおこなわれ11機のMiG戦闘機(MiG-21が4機、MiG-17が7機)が撃墜、アメリカ軍も2機のF-4が撃墜された。対空砲と100発以上の地対空ミサイルも2機のアメリカ海軍機を撃墜している。 月末にはアメリカ軍航空機はハノイから中国国境に伸びる13の鉄道橋を破壊した。またドラゴン・ジョーとして知られたタインホア橋を含むハノイとハイフォンを結ぶ4本の鉄道橋も破壊している。また南にDMZへ向かい伸びる橋もさらに多くが破壊された。このため目標は石油貯蔵施設や輸送網、飛行場などへ切り替えられた。これは南ベトナムでの戦場に即座に打撃を与えた。5月9日から6月1日にかけて北ベトナム軍の砲撃は半減。これは砲弾が戦場に無いというよりは弾薬を節約するよう心がけたためだ。アメリカの情報分析者は北ベトナム軍は秋まで作戦を継続するだけの十分な貯蔵物資を持っていたと考察した。 爆撃作戦の強烈さは東南アジアの攻撃・支援出撃数の急増が明確にあらわしており、攻撃前の一ヶ月で南ベトナム軍を含めて4,237ソーティだったものが4月初頭から6月末までで27,745ソーティ(うち空軍が20,506)にまで増加している。B-52は同期間中に1,000ソーティをおこなった。北ベトナムは強烈な損害を受け、公式な資料でも「5月から6月の間は計画のわずか30%の物資しか前線に届けられなかった」と認めている。ラインバッカー作戦は電子・光学誘導およびレーザー誘導を含む誘導爆弾の大規模使用をおこなった最初の作戦でもある。加えて、北ベトナムの道路・鉄道網を封鎖し、防空網にも組織的攻撃をおこなった。およそ200機の迎撃機を擁する北ベトナム空軍はこれらの攻撃に苛烈に抵抗した。海軍パイロットはトップガンと多くの訓練をつみ相互支援戦術フォーメーションであるルース・デュースを採用した。5月から6月の両者のキルレートは6:1と圧倒的に米軍が優位に立ち、これ以降は北ベトナム軍機と遭遇することは稀となった。MiG-21、MiG-17、J-6(MiG-19の中国生産型)などと対峙した空軍は作戦の最初の2ヶ月で1:1のキルレートを経験したが、ラインバッカーでの最終的な損失24のうち7機は6月24日から8月5日の12日間にベトナム軍機の損害と関係なく発生した。 空軍パイロットは時代遅れのフルード・フォー フォーメーション(四機編隊で隊長機だけが攻撃可能で側面の僚機は損害を受けやすい)を採用していたことに戦果を阻害されていた。また異種戦闘機との戦闘訓練が少なかったこと、早期警戒システムが未熟だったこと、遵守させられていたECMポッドフォーメーションなども同様に理由に挙がる。8月のあいだおこなわれたリアルタイム早期警戒システムの導入、パイロットの経験増加、北ベトナム軍の地上管制能力の崩壊などによりレートは4:1にまで向上した。 ラインバッカーは他にも”初”を見出すことができる。作戦初日、海軍大尉デューク カンニガムとそのレーダー迎撃士官ウィリアム P ドリスコル中尉はMiGを5機撃墜しベトナムでの戦いにおける最初のエースパイロットとなった。8月28日にはリチャード ステファン リッチー大尉が5機を撃墜し空軍最初のエースパイロットとなった。12日後にそのとき彼のバックシーターだったチャールズ B デベルビュー大尉がMiGを2機撃墜しデベルビューのスコアは6機撃墜でエースとなった。10月13日はジェフリー ファインスタインはMiGの5機撃墜を達成し最後のエースとなった。
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