1809年オーストリア戦役 背景

1809年オーストリア戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 07:13 UTC 版)

背景

1808年、ナポレオンの覇権は欧州の全域に及びつつあった。しかし、海上ではイギリスが依然として制海権を握り海上封鎖を続けていた。またスペインではフランスの統治が現地住民の反感を呼び、ゲリラが各地で決起していた。それを見たイギリスはアーサー・ウェルズリーを派遣してスペインの反乱勢力を支援し、半島戦争が開始された。こうした陸海でのナポレオンの躓きを見たオーストリア帝国は、1809年4月9日イギリスと第五次対仏大同盟を結成し、1805年のプレスブルクの和約で失った領土の奪還へと乗り出した。

第四次対仏大同盟

アウステルリッツの戦いヨーロッパにおける勢力均衡を大きく変え、フランスの覇権は中央ヨーロッパにまで及んだ。プロイセンは自国の安全保障に脅威を感じ、1806年にロシアと共にフランスに宣戦し、第四次対仏大同盟を結成した。1806年の秋に18万人のフランス軍がテューリンゲンの森を経由してプロイセンに侵攻した。この動きをプロイセンは察知しておらず、フランス軍はザーレ川の右岸と白エルスター川の左岸に沿って進んだ[7]。10月14日にイエナ・アウエルシュタットの戦いで、ナポレオンは90,000名の軍と共にホーエンローエをイエナにて壊滅させた。更に27000名の第3軍団を率いたダヴーカール・ヴィルヘルム・フェルディナントフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が率いる63000名のプロイセン軍の攻撃をアウエルシュタットにて阻止して破った[8]。フランスは北ドイツで激しい追撃によりプロイセン軍の残党は掃討した後、ポーランド[9]に進攻し、プロイセンを救援できなかったロシア軍と邂逅した。

1807年2月にアイラウの戦いでロシア軍とフランス軍の間で激しい戦闘が行われたが決着は付かなかった[10]。ナポレオンはこの戦いの後、軍を再編成し、数ヶ月間ロシア軍を追いかけ、1807年6月14日にフリートラントの戦いが行われた。この戦いでフランス軍はロシア軍を潰走させた。その結果7月にティルジットの和約が結ばれ2年の流血に終止符が打たれ、フランスはヨーロッパ大陸で支配的な地位を占めるようになった。一方プロイセンは著しく弱体化し、フランス・ロシアの両国によってヨーロッパの各国間の問題が解決されるようになった。

半島戦争

オレンジ戦争(英語版)の後、ポルトガルは異なる2つの外交政策を行った。ブラジルの皇太子でポルトガルの摂政のジョアン6世はフランスとスペインと共にバダホス条約に調印し、イギリスと貿易を行っている港を封鎖した。一方ポルトガル最古の同盟国であるイギリスとのウィンザー条約は無効になっておらず、秘密外交を維持した。フランス・スペイン艦隊がトラファルガーの海戦で敗れるとジョアンは公然とイギリスとの貿易と外交を行うようになった。

このようなポルトガル政府の政策の変化を受けて、ナポレオンはポルトガルに軍を派遣した。1807年10月17日ジャン=アンドシュ・ジュノー指揮下の24,000名[11]のフランス軍はスペインの協力の元でピレネー山脈を渡り、ナポレオンの大陸封鎖を強化するためポルトガルへ向かった。12月1日、首都リスボンを占領し、ポルトガル国王一族はブラジルに亡命した[12]。これが6年に渡って行われる半島戦争の始まりであり、この戦いに苦戦する事でフランス帝国の多くの力が奪われた。1808年の冬の間、フランス外交官はスペインの内政干渉を行う事が増え、スペイン王室の不和を掻き立てようとした。1808年2月16日、ナポレオンがブルボン朝の政治的派閥の仲裁を仲介する事を公言した時、フランスの陰謀が明るみにでた[13]ジョアシャン・ミュラが12万の軍を引き連れスペイン入りし3月24日にマドリードに到着した[14]。数週間後にマドリードで占領に反発した激しい暴動が発生し、フランスの侵略に対する抵抗は瞬く間にスペイン全土に広がった。7月のバイレンの戦いでのフランスの衝撃的な敗北はナポレオンの敵対者に希望を与え、ナポレオンは半島戦争に自ら介入するようになった。ナポレオンに率いられた新たなフランス軍はスペイン軍に打撃を与えた後、秋にエブロ川を渡った。ナポレオンは12月4日に80,000名の兵を引き連れてマドリード入りした[15]。彼はムーア(英語版)のイギリス軍に打撃を与えた。イギリス軍は速やかに海岸まで追い出され、コルーニャの戦い(英語版)を最後にスペイン全土から撤退した。

オーストリア一国での抵抗

オーストリアは直近の敗北の復讐をするために、これまでと異なるフランスへの対抗策を模索したが、スペインの反仏感情を悪化させる事しかできなかった。また1809年にロシアはイギリス、スウェーデン[16]オスマン帝国と戦争をしていたため、オーストリアはロシアの援助は考慮していなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のプロイセン政府の一部は当初オーストリアを助けたがっていた。しかしハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインのオーストリアとの文通がフランスによって傍受された。この文通にはプロイセンがオーストリアを支援する計画が書かれており、プロイセンはこれ以上の対仏関係の悪化を避けるため、1808年9月のエアフルト会議(英語版)に調印せざるを得なかった[17]。オーストリアの財務大臣の報告書では第三次対仏大同盟時以来の大軍を維持し続けると1809年半ばには国庫が尽きるだろうと予想されていた。しかしカール大公はオーストリアにはナポレオンと対決するための準備がまだ出来ていないと警告した。このカール大公の姿勢は彼を"平和主義"へと陥らせたが、彼は軍を退役する事を望むように見えなかった。1809年2月8日、フランスとの戦争の支持者はついにオーストリア帝政にフランスと戦争を行う事を秘密裏に決意させる事に成功した。

オーストリアの改革

1805年のアウステルリッツとそれに続くプレスブルクの和約はオーストリア軍に改革の必要性を示していた。ナポレオンはアウステルリッツの後カール大公をオーストリアの王位に付かせる事を提案し、この事はカール大公の兄であるオーストリア皇帝フランツ2世の深い猜疑心を駆り立てる事になった。カール大公は軍の改革の先鋒を務める事が許されたにもかかわらず、フランツは軍事顧問であり続け、最高司令官としてカール大公の活動を監督した[18]

1806年、カール大公は軍と部隊戦術の新しい指針を発した。主な戦術的な革新は集団の概念であり、兵士たちの隊列の間を閉じる事で対騎兵の集団を作った[18]。しかしオーストリア司令官は革新を嫌がり、カール大帝が直接監督する場合を除いて滅多に集団戦法を使わなかった[18]ウルムとアウステルリッツの敗北の後、オーストリアは1805年にマックの元で導入された1個大隊を4個中隊で編成する運用を止め、1個大隊を6つの中隊で編成するように戻した[18]。しかし改革を行った後も問題は続いた。オーストリアがフランス軍と戦うには散兵が不足し、騎兵はしばしば個別の部隊として軍全体に分散して配備されており、明らかにフランス軍に対して打撃を与える事を妨げていた。カール大公がフランスの軍団の司令構造を真似ようとしたが、オーストリアの軍事的支配層は主導権を奪われることに慎重であり、物事が決定される前には紙に書かれた重い命令書と長々と続く計画に頼っていた[19]

またオーストリアでは別の改革が行われ始めた。オーストリアは多くの将校、熟練兵、正規兵を失い、同盟を結ぶこともできなくなったため、フランスが早期に使い始めた徴兵を取り入れるようになった。既にフランスは熟練した歴戦の兵士を中心とした常備軍を形成する為に徴兵に頼らなくなった。ナポレオン戦争の初期には、戦闘経験を持たないフランス人がオーストリアの常備軍との戦いに度々徴兵された。しかし第五次対仏大同盟では徴兵された多くのオーストリア兵は全く戦闘経験が無く、基礎的な訓練と装備のみを与えられた状態で、フランスの大陸軍との戦場に送られた。

オーストリアの準備

カール大公と宮廷評議会はフランスへの攻撃の方針で意見が分かれた。カール大公は主軍によってボヘミアを突破し、北ドイツのフランス軍を孤立させ、速やかに決戦に挑もうとした[20]。オーストリア軍の大部分は既にボヘミアに集中し、これは自然な作戦遂行であった[20]。宮廷評議会はドナウ川がカール大公と彼の弟のヨハン大公の軍を分断する事を理由にカール大公の作戦に反対した[20]。彼らはウィーンとの連絡網を安全に維持出来るようにドナウ川の南から主軍は攻撃するべきだと主張した[20]。結局、彼らは貴重な時間を失う前にカール大公に道を譲った。オーストリアはベルガルド(英語版)指揮下の38,000名のボヘミアの第一軍団とコロヴラート(英語版)指揮下の20,000名の軍勢はボヘミアの山々のシャムの道からレーゲンスブルクを攻撃した。オーストリアの中央と予備兵力はホーエンツォレルンの第3軍団、ローゼンベルグの第4軍団、リヒテンシュタインの第一予備軍団の合計66,000名の兵で構成されており、シェルディング(英語版)を経由して、レーゲンスブルクを攻撃した。左翼はルイ大公の第5軍団、ヒラーの第6軍団とキーンマイヤー(英語版)の第2予備軍団の合計61,000名で構成されており、ランツフートへ向かいながら側面を防衛した[21]

エアフルト会議

ティルジットにてナポレオンはアレクサンドルを賞賛したが、1808年の9月から10月に行われたエアフルト会議(英語版)までに、ロシアの宮廷では反フランス感情が高まり、新たな仏露同盟を脅かそうとしていた。ナポレオンと外務大臣のシャンペイン(英語版)はエアフルト会議でオーストリアを牽制し、軍の主力をイベリア半島に注力するために仏露同盟を再確認する事を意図した。またナポレオンと前外務大臣のタレーランの間で意見の食い違いがあり対立していた[22]。タレーランはナポレオンと彼の戦争政策がフランスを破滅に導いていると結論を下し、アレクサンドルにナポレオンの野望に抵抗するよう密かに忠告した。

エアフルト会議ではイギリスに対してフランスとの戦争を止めるようロシアが呼びかける事、ロシアのフィンランドの征服をフランスが承認する事、オーストリアとの戦争が開始された際にロシアはフランスを”可能な範囲で”助力する事が合意された[23]。10月14日に両皇帝は祖国に戻るためにエアフルトを出発した。6ヶ月後、予想されていたオーストリアとの戦争が開始され、アレクサンドルはナポレオンとの合意に形だけ応えるため、フランスに対して最小限の援助をした。その後1810年までに主に大陸封鎖令の実施による経済的圧力によって両皇帝はお互いに戦争をする事を考え始めた。エアフルトはフランスとロシアの指導者にとって最後の会議となった。

フランスの準備 

ナポレオンは1809年の冬のスペイン戦役から丁度パリに戻ってきた時で、南ドイツのフランスの方面司令官のベルティエに今後形成されうる戦線への部隊の展開と集結の計画を教授していた。彼の概案では次の戦役は1805年と同様にドナウ川が主戦場になり、北イタリアに侵攻してくるオーストリア軍はマルモンボアルネの軍によって拘束されると予想していた[24]。オーストリアの主軍はドナウ川の北から攻撃してくるとナポレオンは考えていたが、この判断は誤っていた[25]。3月30日、ナポレオンはベルティエに手紙を書き、その中でレーゲンスブルク近辺に140,000名の兵を集結させる意図を説明した。レーゲンスブルクはオーストリアの攻撃を予定している場所から遠く北に位置していた[26]。ナポレオンのベルティエへの命令はオーストリアの攻勢が4月15日より早く開始される事はないという仮説に基づいていた。これらのオーストリアの作戦に対する誤解によって、フランス軍は戦闘開始時に部隊を適切に展開できなかった。当時フランス軍の主力は半島戦争に参加していたものの、オーストリア方面のフランス軍と同盟軍は18万に達した。しかしこれら部隊の半数がオランダ、ドイツ、ポーランドの外国兵であった[27]


  1. ^ Chandler p. 673. オーストリアはイタリアを攻撃するために100,000名の兵を送り、40,000名の兵でガリツィアを防衛し、200,000名の兵と大砲500門を6つの戦列と2つの予備の軍団に分けて、ドナウ川周辺の主戦場に送った。
  2. ^ The British Expeditionary Force to Walcheren: 1809 The Napoleon Series, 2006年9月5日閲覧.
  3. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 670.
  4. ^ a b Bodart 1916, pp. 44.
  5. ^ Bodart 1916, pp. 129.
  6. ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 144.
  7. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 469.
  8. ^ Chandler pp. 479–502.
  9. ^ ポーランドは1795年にプロイセン、オーストリア、ロシアによって分割された。
  10. ^ 松村(2006) p.136.
  11. ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 197.
  12. ^ 松村(2006) p.143
  13. ^ Fisher & Fremont-Barnes pp. 198–99.
  14. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 199.
  15. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 205.
  16. ^ 同様の理由でオーストリアはスウェーデンの援助を考慮できなかった。
  17. ^ Napoleon – Felix Markham, p. 179
  18. ^ a b c d Fisher & Fremont-Barnes p. 108.
  19. ^ Fisher & Fremont-Barnes pp. 108–9.
  20. ^ a b c d David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 676.
  21. ^ Chandler pp. 676–77.
  22. ^ a b 本池(1992) p.133
  23. ^ "The Erfurt Convention 1808". Napoleon-series.org. 2013年4月22日閲覧
  24. ^ Chandler p. 671.
  25. ^ Chandler p. 672.
  26. ^ Chandler p. 673.
  27. ^ 学習研究社(1996年)、p.48
  28. ^ a b Marcus p. 204.
  29. ^ a b Chandler pp. 678–79.
  30. ^ Chandler p. 679. 4月16日深夜にベルティエはナポレオンに下記の内容の手紙を書いた。”私は現在の情勢下で、皇帝陛下の必要な命令を頂くために、陛下の到着を切に願う。”
  31. ^ a b Chandler p. 681.
  32. ^ Chandler p. 682.
  33. ^ Chandler p. 683.
  34. ^ Chandler p. 686.
  35. ^ Chandler p. 687.
  36. ^ Chandler p. 689.
  37. ^ a b Chandler p. 690.
  38. ^ Marcus p .214.
  39. ^ Chandler p. 691.
  40. ^ Marcus p. 217.
  41. ^ 松村(2006) p.153.
  42. ^ Andrew Uffindell, Great Generals of the Napoleonic Wars. p. 174.
  43. ^ Uffindell, p. 175.
  44. ^ a b Uffindell, p. 177.
  45. ^ a b 松嶌(2016) p.139
  46. ^ Uffindell, p. 178.
  47. ^ Uffindell, pp. 178–79.
  48. ^ Uffindell, p. 179.
  49. ^ a b David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 708.
  50. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 134.
  51. ^ a b Fisher & Fremont-Barnes p. 139.
  52. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 141.
  53. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 142.
  54. ^ ローラン(2000) p.211
  55. ^ 柘植(1988), p. 164.
  56. ^ 長塚(1986年)、p. 350.
  57. ^ 松村(2006) p.150.
  58. ^ Marcus p. 225.
  59. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 122
  60. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 123.
  61. ^ 1809: thunder on the Danube, Jack Gill
  62. ^ Mikaberidze pp. 4–22.
  63. ^ Marcus p. 239.
  64. ^ F. Loraine Petre, Napoleon and the Archduke Charles. p. 318.
  65. ^ Haythornthwaite p.147
  66. ^ The British Expeditionary Force to Walcheren: 1809 The Napoleon Series, 2006年9月5日閲覧
  67. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 732.
  68. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 732.
  69. ^ 本池(1992) p.145
  70. ^ 本池(1996) p.427
  71. ^ a b Chandler p. 736
  72. ^ a b Richard Brooks (editor), Atlas of World Military History. p. 115.
  73. ^ a b c Brooks (editor) p. 114.





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1809年オーストリア戦役」の関連用語

1809年オーストリア戦役のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1809年オーストリア戦役のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの1809年オーストリア戦役 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS