賤ヶ岳の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 02:14 UTC 版)
合戦の性格
この戦いは柴田勝家、滝川一益と羽柴秀吉、丹羽長秀の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝の対立でもあった。両者の対立がそのような形をとったことは、戦国時代の幕府の政争が将軍の家督争いという形をとってきたことと相似する[10]。そればかりか、勝家の場合は備後国鞆ノ浦(広島県福山市)にあって京都への帰還をもくろんでいた征夷大将軍足利義昭の擁立さえ試みていた[10]。
この戦いで、一向宗の本願寺勢力は秀吉方に与力すると申し出ている。本願寺が加賀の一揆を動員して秀吉に忠節をつくすと申し入れてきたことに対して、秀吉はこれを賞賛し、柴田領の加賀・越前で活躍すれば加賀を本願寺に返還すると応えている。とはいえ、本願寺にそのような力は残っておらず、実際、勝家が一向宗残党を警戒した様子はない。
合戦の影響
この合戦の結果、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになった。また合戦終了の2日後の4月25日(6月15日)に秀吉は中国地方の戦国大名・毛利輝元の重臣・小早川隆景に書簡を送り、自軍の勝利に終わったことを報告するとともに、中立状態にあった毛利氏の自らへの服属を暗に促した。戦後処理終了後ほどなく、秀吉は畿内の石山本願寺跡に大坂城の築城を開始し、同年5月には朝廷から従四位下参議に任命された。さらに合戦終了後、秀吉のもとには徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の有力大名が相次いで使者を送り、戦勝を慶賀し親交を求めたことも秀吉の畿内における権力掌握を象徴した。しかし臣従したとはいえ、丹羽長秀、池田恒興、森長可、蒲生氏郷、堀秀政、長谷川秀一などの織田家旧臣が大幅な加増を得ていることも見逃せない事実である。
脚注
注釈
出典
- ^ 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)
- ^ 高柳 2001.
- ^ 池上ほか 1995, p. 477.
- ^ 大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」(初出:『堺市博物館研究報告』32号(2013年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)
- ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』pp.473-476)。
- ^ 『尾張群書系図部集 下』(続群書類従完成会、1997)p.853
- ^ a b c 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』p.474)。
- ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』pp.474-476)。
- ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』p.476)。
- ^ a b 神田 2002, p. 270.
賤ヶ岳の戦いと同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 賤ヶ岳の戦いのページへのリンク