結集 第1回

結集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/22 04:40 UTC 版)

第1回

伝承によると、釈迦(ブッダ)入滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外の七葉窟(しちようくつ)に500人の比丘(大勢の比丘=修行者という意味)が集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集または王舎城結集)[1]

Yo kho ānanda mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto so vo mamaccayena satthā ti.

アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「」が、私の死後は、あなた方の師である。[1]

—  パーリ仏典, 大般涅槃経, Sri Lanka Tripitaka Project

このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ (Dharma)と (Vinaya)の編集責任者となった[1]マガダ国の阿闍世王(アジャータシャトル)が大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。また、文殊菩薩十大弟子とも親しく、この結集に参加したとの伝承がある。

第2回

その後のインドにおける結集には、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)がある。婆沙論によれば、アショーカ王の時代に根本分裂が起きた事になっている。南伝の『マハーワンサ』によればシシュナーガ朝のカーラーショーカ王の治世においてであるとしている。

第3回

南伝によれば、ブッダ入滅後200年にあたるマウリヤ朝第3代アショーカ王(阿育王)の治下、モッガリプッタ・ティッサ(目犍連帝須)[注釈 1]による提唱と主宰の下で華氏城(けしじよう、パータリプトラ)で1000人の比丘を集めて行われた(千人結集)[2]紀元前3世紀半ばとされる。

北伝の説一切有部伝承では、紀元後2世紀クシャーナ朝カニシカ王のもとで、カシミールの比丘500人を集めて開かれた結集があったとされる。

他の部派の記録には3回以降が行われた記録は見当たらない。

第4回

南伝では、紀元前1世紀、ヴァッタガーマニ・アバヤ王の治世に、スリランカのアルヴィハーラ石窟寺院にて、500人の比丘を集めて第4結集が行われたとされる。


出典

  1. ^ アショーカ王とその王子マヒンダの師。マヒンダを出家させてセイロン伝道の使節とした。
  1. ^ a b c d e 馬場紀寿『初期仏教――ブッダの思想をたどる』〈岩波新書〉2018年、55-59頁。ISBN 978-4004317357 
  2. ^ マヒンダ”. コトバンク. 2020年6月29日閲覧。
  3. ^ 大蔵出版 『パーリ仏典』
  4. ^ 人見 2009, p. 968.
  5. ^ 人見 2009, p. 967.
  6. ^ 人見 2009, p. 970-969.


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