米比戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/21 14:34 UTC 版)
公式の戦争終結後の戦闘
さらに次の10年では、アメリカ軍はフィリピン軍に対抗するため、126,000人にも及ぶ大規模な軍事力を必要とした。アメリカ軍はさらに、パンパンガ州マカベベのフィリピン人を雇い入れることも行った。
モロの反乱
1899年2月から1913年6月にかけて、モロ州(スールー王国、マギンダナオ王国、ラナオ王国、サンボアンガ共和国)のモロ族への残党狩りが長期間に渡って行われた。
- 1903年4月4日、タラカの戦い
- 1903年10月、ハッサンの蜂起
- 1904年12月12日、プラハネスとのドローレス川の戦い
- 1906年3月5日、第一次ブッダージョの戦い
- 1911年12月1日、第二次ブッダージョの戦い
- 1913年6月、バグサク山の戦い
- 1915年3月、スールー王国のジャマルル・キラム2世とカーペンター=キラム協定(Carpenter-Kiram Agreement)を締結し、アメリカ合衆国の主権がフィリピン全土で確定した。
犠牲者数
フィリピン側の民間人の犠牲者数は20万人から150万人といわれる[3][4][5]。
結果とその後
1946年7月にマニラ条約が締結され、当初アメリカにより保証されていたフィリピンの独立も漸く果たされることとなる。フィリピン人は一般的にアメリカに友好的であるが、こうした経緯からアメリカに否定的な感情もまたある。
フィリピン側が奇襲の合図に用いていた鐘(バランギガの鐘)は米比戦争の後、アメリカが戦利品として本国に持ち帰っていたが、2018年12月にフィリピン中部・サマール島にあるバランギガの教会に返還され、式典が開催された[7]。
- ^ a b “Historian Paul Kramer revisits the Philippine-American War”, The JHU Gazette (Johns Hopkins University) 35 (29), (April 10, 2006) 2008年3月18日閲覧。
- ^ Chambers & Anderson 1999
- ^ a b c Guillermo, Emil (February 8, 2004). “A first taste of empire”. Milwaukee Journal Sentinel: 03J .(author unknown) (November 1, 2003). “Kipling, the 'White Man's Burden,' and U.S. Imperialism”. Monthly Review 55: 1.
- ^ a b Smallman-Raynor 1998
- ^ a b Burdeos 2008, p. 14
- ^ “Milestones: 1899–1913 - Office of the Historian”. history.state.gov. 2021年6月6日閲覧。
- ^ 米戦利品117年ぶり故郷に戻る 共同通信、2016年12月15日
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