禁厭秘辞 朧夜漫談

禁厭秘辞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/11 01:42 UTC 版)

朧夜漫談

『朧夜漫談』(おぼろよまんだん)は、山口県田布施町にある宗教法人・神道天行居の教祖友清歓真が信者のために書いた論文である。主たる内容は水位の『禁厭秘辞』からの抜粋で、日本に伝わる古いまじないや黒魔術呪術妖術・幻術・隠形術・忍術を説明するほか、引用文献の書名などについても詳細に述べる。

神界に伝わる正伝のものは盗法がきかず仮に盗んでも霊験がないが、逆に魔道系のものは盗むことによって更に霊験があらたかになるとし、また魔道を行う者は終わりを良くせず、子孫に禍が降りかかり、その題名を書き記すだけでもおぞましいことだと記す。

友清は隠秘学の蒐集家で土佐の宮地水位の文献資料蒐集家としても知られているが、この小編に限らず昭和10年頃掲載された天行居機関誌『古道』の「神道一家言」などの論考の中にも『禁厭秘辞』からの引用がある。友清は大本教在籍の頃すでに『幸安仙界物語』(『神界物語』)の端本を入手してその一部を機関誌『神霊界』の中に発表している。後に大本を脱退して一派を構え、格神教から神道天行居と改称したが、その中で蒐集した水位文献並びに各神道学派の資料類や、大本教鎮魂帰神法、断易の九鬼神道、本田親徳の霊学、川合清丸や太古真法継承者の堀明道(天龍斎)の教義などを吸収して、自らの著作類の中に夥しく引用した。

これらの資料類や『禁厭秘辞』に述べられたものを参考に論文としてまとめあげたものが『朧夜漫談』である。

小松島皇大神宮と水位翁

徳島県小松島市に鎮座する小松島皇大神宮は地元の人々に中田(ちゅうでん)さんとも呼ばれ、戦前は中田皇大神宮とも称されていた。かつてこの神社の神職に増田という土佐の宮地水位門下で玄学を学んだ人物がいた。明治10年頃に阿波国の小松島の地に於いて水位と大先達の言霊学・音義説の大家堀秀成翁が同席して神道講演の演説をした折りに増田氏が聴講した縁によると言う。またこの小松島には島そのものを所有する大富豪の多田家があったが、その九代目当主・多田宗太郎は、難病に罹って医者から余命幾許も無いと死の宣告をされ、藁をも掴む思いで、名だたる祈祷師などに加持祈祷を頼むも効果なく、必死の思いで中田皇大神宮の神に命乞いの御祈念をした折に、神職の増田の仲介により土佐潮江の水位を知る。知らせを受けた水位は事前に式次第及び祭事に関する手配の連絡をとって、増田とともに地元の神官8名と童女1人を連れて小松島の多田家を訪れ、一週間の鎮魂および祈祷により宗太郎は69歳まで延命を許されたという。水位は祈祷後に応接間において当主の一生に関しての預言を行い、この霊威に感銘を受けて深く感じ入った宗太郎は、家の宗旨を真言宗から神道に変えて神仙道を深く信奉し、預言通りの死去の日まで水位の経済的援助はもちろん、信心を怠ることがなかったと伝えられている。水位が小松島の多田家に逗留の際、たまたま談が禁厭に及び、多田と増田の懇望により白墨にて額字を揮毫し、水位が記した鳳凰文字四文字の額および神代文字三文字の額が現在も多田家玄関および中田皇大神宮境内に掲げられてあると言う。

多田は水位の預言通りに寿命を授かり明治25年如月5日に逝去した。水位は多田の功績を称えて神界より位階を賜り、小松島での神葬祭の折に祝詞文を奏上して遺徳を偲んだ。その引導文の一部を以下に抜粋する。昭和26年8月31日神仙道本部発行の『神仙道誌』によると、水位の手記には折風67年と幽界の年号で記載されているという。

夫レ人ニハ必ズ天ヨリ定リタル縁アリ。縁アリテ而シテ後ニ思ハザルモ亦会遇ス。会遇シテ而テ後ニ愛敬ノ心自ラ通ズ。茲ニ於テ親愛ノ情ノ惹起シ内意ヲ通ズル事ヲ得、是レ天命ノ然ラシムル所以ナリ。年ヲ亘リテ病勢進ミ二月五日ヲ以テ惜哉身ヲ松下ノ土ニ帰シ魂ヲ幽中ニ脱ス。其報ヲ伝聞スルヤ胸中塞リ俄然トシテ涙ハ眼中ニ血塗リ起居茫然トシテ常ノ心ヲ失フ。尊大人ノ形影前ニ浮ビ夢中ニ現ズ。豈偶然ノ事ニ非ズヤ。而テ君ハ幽ニ入リテ不肖ハ現ニ止ル。現幽分界、身体ト霊魂ト分離ス。嗚呼天下押並ベテ現界ノ体アルヲ見テ之ヲ信ジ霊魂ニ至リテハ凡夫ニシテ神通ナキ者ハ其霊眼前ニ見エザルヲ以テ無キモノトナシ、軽ンジ疎ンジ生前ノ時ヨリ必ズ万事疎略トス。之レ通常人間ノ致ス所ナリ。(中略)余ヤ十二歳ニシテ父ノ名跡ヲ継ギ天満宮ノ神主トナリテ若狭守菅原ノ正昭ト称ス。其際父ヲ上野守菅原ノ重房ト号シ敬神尊王ノ道ニ心ヲ砕キ終ニ幽冥ノ神等ニ拝謁スル事ヲ得余ヤ父ノ敬神ノ功徳ニヨリ神々ヲ眼前ニ拝スル事ヲ得タリ。是レ不肖ガ幽冥ニ通ジ霊魂ノ赫々トシテ存スル事ヲ信ズルノ始メナリ。之ヨリ以来少名彦那神ニ伴ワレテ幽冥中ノ世界ニ出シ、

又仏界ニ往来シ、西洋州中ノ獮摩ノ耶蘇ノ霊界モ一見シ、継ギテ愚賓界・天狗界ニモ入リ杉山大僧正及ビ大山大僧正ニ謁シタリ。其間幽霊ニ談話セシ事モ今拳ゲテ教ヘ尽シ難シ。人死スルヤ其魂ハ三魂アリ。本魂ハ産土神ノ指導ニ随ヒ大国主神ノ御計ヲ受ケテ天神ノ冥府ニ上昇シ奇魂・幸魂ハ家ノ守護トナリ子孫ヲシテ善路ニヨラシム。是レ通常人ノ霊魂ノ行末ナリ。今幽冥世界ノ掟ヲ開キテ君ニ其ノ上等行末ヲ奏ス。君ノ霊魂ハ今三霊共万霊神嶽ヨリ帰リテ家ノ内ニ止ル。此ヲ以テ君ニ其ノ行末ノ安心ヲ謹テ示ス。地球中最モ弘シト雖モ命終ル者ノ霊ハ神道仏道耶蘇ヲ論ゼズ皆万霊神嶽ニ至リテ現世ニ在リシ時ノ善行悪行ノ判決ヲ受ケ各其宗旨ノ界ニ入ル。神道ニ於イテ善行アル神霊ハ、上等ナルハ神集嶽及ビ日界ニ止ル。悪行セシ霊ハ月ノ国ニ適セラレテ大ナル苦ヲ受ク。又仏道ニ於テ善行アル者ノ霊ハ万霊神嶽中ノ下等此界ノ入口躑躅界ニ止ル。是レ経文ニ謂フ処ノ極楽世界ナリ。悪行アリシ者ハ躑躅界中ノ就車界ニ止ル。是レ経文ニ所謂地獄ナリ。其ノ責苦ヲ受クルモ亦大ナリ。君ノ霊魂タル、内ニハ神事ヲ以テ之ヲ祭祀スルト雖モ、外戚ニ於テ之ヲ裏ト称シ祭祀スルニ仏道ヲ以テス。故ニ何レノ界ニモ附着スル事能ハズ。之ヲ以テ万霊神嶽ヨリ裁判ノ中半ニシテ此家ニ帰リ止リ、本年二月二十六日ノ暁ニ君ノ霊来リテ神集嶽ニ参ラン事ヲ告ゲ、外三事ヲ余ニ寄ス。故ニ君ノ霊前ニ幽中ノ大要領ヲ示ス。安鎮慰霊歴代ノ祭祀終リテ後ハ、速ニ万霊神嶽ノ第一裁判官中津大兄ノ官等ニ奉仕シタル神等ニ上告シ、次ニ幽冥ノ大都タル神集嶽ニ入リ、大永宮ノ総轄皇産霊神天照大神伊弉諾命ノ代命タル金闕上相大司命東海王方諸青華小童君ニ上告シテ奇籍大籍籙奇符六等ヲ得テ本魂ハ宮中ニシテ高位ニ居シ・ニ魂ハ霊舎ニ還リ止リテ家運ノ全能子孫ノ久遠ヲ守リ給ヘ。君此界ニ入リ給フ時ハ、第一ノ大門ヲ過ル時大永宮ヘ通行ノ符ヲ請受ケ、道路ノ物一切之レヲ取ル事勿レ。取ル時ハ大ナル罪咎アリ。是レ君ニ告グルノ第一ナリ、第二ノ大門ヲ過グル時、現界土佐国ノ住人宮地堅磐、幽中ノ名ハ幽冥大都大永ノ官属霊宝鴻図総櫃ノ中録事奇符ノ第三等水位大霊寿真人ノ指揮ニ依ッテ水火認調ノ嶺ヲ越シテ以テ大永宮ニ達ッセントスト上告シ、塩精蜜調ヲ受ケ大川ヲ渡リテ西門ヨリ上告シ其指揮ヲ受ケ給ヘ〔以下略〕

注、以下も折尾の古本屋提供による、妄想記事。事実無根の記事を信じている人たちは、処罰の対象になる可能性があります。古本屋がすぐ削除してうそをごまかすあわてぶりを見てください。これから何度でも書き込みしますから。

前述の水位の遺稿や神宝類は土佐五台山・神仙道本部内からも紛失、横領している道士達は、徳島小松島の多田御宗家宅にも侵入し、家人が留守の隙に水位の資料や書簡や写真類を盗み出して北海道紋別滝上並びに潮見町や神戸鈴蘭台に持ち帰っている。水位は几帳面な人物で、上記の引導文の祝詞の下書きを便箋に控えとして書き残しており、この便箋数枚の中にはこのほか多田宗家の願いにより詠じた短冊や伝法書類、神代文字および水位の写真や書簡なども授けた旨が事細かに記載されていて、多田家の当主は水位のものを大事に保管されていたと言われている。

社司鏑木鏺麿との邂逅

鏺麿は東京浅草現在の台東区に鎮座している由緒ある神社の代々の神官の出である。家学である神道の他に、民俗学にも造詣が深く明治23~24年頃には禁厭に関する草稿を物している。この草案には禁厭の起源から説き起こし、まじない方や禁厭の種類及び病源論にまで説き及び、主に古事記の物語を参照して引用解説を施しているが、その証の成否を確認する為に自著を持参し、明治25年夏に遠路土佐潮江天満宮の水位の下に出向し翁の教えを垂れることにした。邂逅して肝胆を砕く思いで水位翁に禁厭の極意の有無や自著の所感の教示を乞うと、快く承諾され一渉り"まじない"についての見解を述べ蠱の字義に説き及び後に、鏺麿が持参した『禁厭考』にも目を通し、実に懇切丁寧な説明で、さり気なく私見を述べられたが、学識の豊かさと博引傍証の説明に鏺麿は深く感銘を受けたという。禁厭は法を以て無形をして感せしむる物なり。人の善悪を云はず、行ふ人の一念にも関係せる事なり。禁厭を以て人を苦しめ、或は生し、或は詛ひ殺す法ありて禁厭とも詛咒とも云うへど其理に至りては一なるを、善方に用るをマジナヒと訓し、悪方に使うふをトコヒと云ふなり。まさにノロヒとも言ひ習はせしかども、本来は一つのもの也。更に敷衍して古事記に出典の様々な詛法にまで説き及んだ。この水位の博覧強記な説明により、禁厭(まじない)と詛(とごい)と呪(のろい)厭魅(えんみ)の一義が明瞭に判明したと述懐している。水位の著作である玄道或問の中で魂魄についての質疑に対して見解を述べられておられる箇所があるが、弟子に対する師の慈愛に満ちた質疑応答の内容を判読してもわかるように、その玄学的知識の蘊奥は並外れており天衣無縫な水位の学識の深さに驚愕した鏺麿は正式に入門の手続きを踏まえて、水位門下の道士となり鏑木家に伝来する由緒ある社家代々に伝わりたる文化伝統の家学を更に深く究めたと言われている。水位門下の逸材は全国津々浦々に及ぶが、その他にも同胞の神道学者にして道蔵にも造詣の深い伊予大洲の矢野玄道、讃岐の中田皇大神宮神官・増田猶太郎、同県小松島の多田勝太郎、地元天満宮神官の宮地左膳、石舩の宮司宮崎敬壽や常磐先生とも交流のあった原、岡藤太郎、由良藤兵衛、水位側筆の岑正雄など、それぞれに活躍している。


  1. ^ 文献[要文献特定詳細情報]や在野研究家[誰?]への口頭調査によると、当時[いつ?]水位は熱心な弟子たちに対して『禁厭秘辞』と一緒に関連文献として自著の『巫医梯』を貸し与えていたと[誰によって?]推測されている。


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