琉球の朝貢と冊封の歴史 清代の朝貢、冊封について

琉球の朝貢と冊封の歴史

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清代の朝貢、冊封について

琉球から清への遣使

琉球から清への遣使は、前述のように決められた間隔で派遣される進貢使の他、新皇帝の即位を慶賀することを目的とした慶賀使、冊封など中国皇帝から特別な恩恵を受けた後に派遣する謝恩使などがある。進貢使、慶賀使(進香使を含む)、謝恩使は正使らが上京して皇帝に拝謁することが出来たが、後の使節は上京を許されることはなく、福州で任務を遂行した[146]

琉球王国の役人の業務として国内の出張である「地下旅」、薩摩、江戸へ出向く「大和旅」、そして中国に行く「唐旅」という三種の旅役があったが、中でも唐旅が最も高い勲功とされ、通常、地下旅、大和旅を勤め上げた後に唐旅役の「渡唐役人」に任じられた[147]。また渡唐役人以外の船長以下乗組員もまた、一定以上の乗船経験を積んだ上で中国へ向かう船の乗組員として採用されるシステムであった[148]

進貢使の正使は清代の1668年以降、琉球王国の日常政務を取り仕切る評定所下御座を構成する15名のメンバーの一人、御鎖之側が耳目官として務めることが定着した[149]。慶賀使は進貢使よりも地位が高い国王の舅、王舅が正使となるのが通例であった[150]。謝恩使については、冊封に対する謝恩の場合は三司官を務める王舅という他の正使よりも地位が高い人物が正使となったが、その他の謝恩の場合は進貢使の兼任が一般的で、その場合には正使を耳目官よりも地位が高い紫巾官とした[151]

明代の1475年、進貢船の定員は150名までとする規定が設けられ、その後1688年の尚貞の要請を受け、康熙帝は進貢船の定員を200名に増加することを認めた[152]。200名への定員増加以降、2隻で編成された進貢船の一号船には約120名、二号船には約80名が乗船したが、その人員の配分は進貢時によって若干の違いがあった。また接貢船の乗員は約80名であり、1861年の接貢船の乗船名簿によれば乗船者は89名であった[153]

進貢船の那覇港出発前、そして帰還時にはそれぞれ上表渡、勅書迎という儀式が執り行われた。上表渡とは国王以下が参列する中で、琉球国王から中国皇帝への書状、「上表文」を進貢使に渡す儀式であり、首里城で行われた。上表文の内容はおおむね皇帝を称え、進貢を行えることについて感謝したものであった。勅書迎は那覇港に到着した皇帝の勅書、回賜品をまず輿に乗せて首里城まで運び、やはり首里城で国王と臣下が列席する中で勅書、回賜品を迎える儀式であった。琉球にとって朝貢、冊封によって中国との関係を維持していることは国家体制の保障となっており、安定して進貢が継続されること、そして皇帝からの勅書、回賜品を迎えることには大きな意味があった[154]

中国における琉球の窓口、福州

福州柔遠駅(琉球館)

明は諸外国からの朝貢事務を管轄する「市舶提挙司」という専門の役所を設けた。1405年、泉州に「市舶提挙司」付属の来遠駅を設立して琉球からの使節に対応することにした。これは宋から元代にかけて、泉州が中国の中でも有数の貿易港であったためである。しかし明代に入ると泉州から福州へと港としての繁栄が移っていき、しかも福州の方が琉球からのアクセス、そして北京への進貢ルートを考えても利便性に優れていたため、15世紀前半の永楽年間には福州が琉球の主な出入国窓口となっていた。1472年には「市舶提挙司」が福州に移転し、それに伴って琉球使節の応対施設として懐遠駅が福州に設けられ、泉州の来遠駅は廃止となった。初期の懐遠駅には宿泊設備の他、朝貢品や商品の保管、検査用の建物、あと媽祖を祀る天妃宮などが設けられていた。この福州の懐遠駅は、万暦年間には書経からその名を取った柔遠駅と改名された[† 11]。やがてこの福州の琉球使節の応対施設は、一般的には琉球館と呼ばれるようになっていく[155]

なお福州で琉球人は福州周辺までの外出は認められていたが、夜間外出、そして宿泊は禁じられていて、北京に進貢や慶賀のために赴く以外どうしても琉球館中心の生活となっていた[156]。後述のように琉球館には様々な機能があり、そのため約200名が滞在できるようになっていた[157]

明代から琉球館には「存留在船通通事」と呼ぶ琉球側の役人が駐在していたことが知られている。明から清への王朝交替期を経て、1680年以降は琉球館に駐在する琉球王国の役人の名称は「存留通事」という名称が固定化する。この「存留通事」の業務は琉球と中国との関係の調整や中国情報の収集、分析、中でも19世紀半ば以降は中国における欧米諸国の動静の収集や交渉など[† 12]、いわば大使館的な業務とともに、琉球使節の日常活動に関する業務、そして朝貢貿易に関する事柄についても対応することがあった。しかし大使館的な業務を行っていたとはいえ、琉球館にはいわゆる外交特権のようなものは適用されておらず、敷地内には武官を含む中国側の役人が常駐しており、中国側の管理下に置かれていた[158]

福州の琉球人墓碑銘

琉球館には中国側のスタッフも働いていた。通訳兼琉球と中国側との交渉の一翼を担っていた土通事である。明代においては土通事はさほど重要役割を持っていなかったが、明清交替期の混乱下において、謝必振が琉球と中国側との関係円滑化に大きく貢献して以降、清代は中国側との交渉時に仲介役を果たすようになった。特にアヘン戦争後の18世紀半ば以降に欧米諸国からの圧力を受けるようになってからは、琉球側からの陳情や対欧米人対策要請に関する文書の作成、そして対欧米諸国との直接交渉などに深く関与し、琉球王国にとってより重要な人材となっていった[159]

他の琉球館の役割としては、まず琉球と中国との朝貢貿易の拠点となっていた。その他、琉球から中国に私費で留学し、数年間福州で学問や技術を学ぶ「勤学人」と呼ばれる人たちの滞在場所、そして中国大陸に漂着した琉球人の収容施設、中国で客死した琉球人の慰霊施設としても機能していた。つまり大使館的な機能プラス貿易センター、留学生センターそして漂流民収容施設、客死した琉球人の慰霊施設という実に多目的な使われ方をしていた。この琉球館の管理運営費や食費等は基本的に中国側の負担であり[† 13]、また中国大陸に漂着した琉球人の琉球館までの移送費や生活費も中国側が負担した[160]

中国での朝貢貿易

進貢について
琉球の進貢船

中国への進貢は、これまで述べてきたように洪武帝が琉球を招諭してから1475年までは事実上制限が無かった[161]。1475年から1506年までは二年一貢、1507年から1521年までの間、いったん一年一貢に戻るものの、1522年には二年一貢となる[162]。そして薩摩藩による琉球侵攻後、1612年には十年一貢[163]、そして1622年に五年一貢となり、1634年には二年一貢が復活してその後1874年の最後の進貢まで継続する[164]。そして1689年以降、二年一貢の間の年に接貢船の派遣が定例化する[165]

なお進貢時、各国は決められた朝貢品を献上することになっている。この決められた朝貢品のことを常貢品と呼ぶ。明代、琉球の常貢品は馬と硫黄であった。17世紀に入るとヤコウガイが加わり、清代に入ると馬、そしてヤコウガイが外れて銅と錫が加わり、最終的には硫黄、銅、錫が常貢品となった。なお、硫黄は琉球国内の硫黄鳥島で産出するものの、銅と錫は琉球では産せず、薩摩藩を通じて確保するしかなかった。1793年には薩摩藩側から銅の入手が困難となったため、量の削減ないし常貢品の品替を求めてきたものの琉球側が押し返している[166]

朝貢品には常貢の他に、慶賀使などが持参する特別の朝貢品もあった。明代の特別の朝貢品には刀、扇など日本との交易品や、胡椒、象牙などといった東南アジアとの交易で入手した品であったが、16世紀半ば以降は屏風紙や芭蕉布といった琉球の産物となっていき、清代になるとそれが定着する[167]

進貢に対して中国側からはお返しに当たる回賜品が贈られる。回賜品の中心は絹織物であり、明代は国王には皮弁冠服が下賜されたが、他は布地であった。その他大統暦や明代初期には船舶も下賜された[168]。清代に入ると国王にも既製服と冠の下賜は無くなり、布地の下賜となった。下賜される布地は宮廷用の高級絹織物であったが、清の国力が衰えた19世紀の同治年間になると、規定通りの布地の下賜が困難となって質が劣る布地を代わりとすることが一般的となった。ただ、いずれにしても基本的には進貢品よりも回賜品の方が高価であった[169]

琉球館での貿易

進貢、謝恩、慶賀いずれの場合においても、琉球側は清の皇帝に貢物を献上し清の皇帝からは回賜品が贈られた。つまり貢物の献上と回賜品の贈与は一種のバーター取引であった。その一方で琉球側は進貢船や接貢船などに大量の商品や金品を積み込んでおり、清側の監督のもと福州の琉球館で貿易を行った。つまり琉球の朝貢貿易は貢物の献上に対する回賜品の贈与を受ける形式と、清側の監督のもと福州の琉球館で行われる貿易という二つの方法で行われた[170]

進貢、接貢以外の謝恩、慶賀という機会も、琉球側によって福州の琉球館での貿易の機会となった。そればかりではなく、琉球に漂着する清国人の送還を名目とした解送使の派遣時もまた、格好の貿易チャンスとなった。19世紀の嘉慶、道光期になると解送使の派遣がしばしば行われるようになった。これらの福州の琉球館で行われる貿易は、清側は輸出入とも関税をかけず、琉球にとって有利な条件であった[171]

輸出入に関して関税をかけることはなかったが、清側は琉球との朝貢貿易の統制は怠らなかった。まず輸出禁止品のチェックが行われた。例えば武器本体や硝石のような兵器の原料となるような物品、そして銅及び銅製品等が輸出禁止であった。銅は清代、消費量に対して産出量が少なかったためである。しかし1744年に福建製の銅製消防用消火ポンプの輸出が認められるなど、状況に応じて特別許可が下りることもあった[172]。また琉球側が持ち込む商品、金品にも統制が加えられた。清側は朝貢貿易において琉球側が持ち込む商品、金品についての総量規制は行わず、琉球側からの申告のみで済ませていた。しかし1747年、琉球側の申告を遥かに上回る商品、金品が持ち込まれていたことが問題視され、以後、清側による査察制度が導入された。しかしその後も清側への申告を上回る量の商品、金品が持ち込まれ続けたと推察されている[173]

琉球の朝貢貿易に対しては日本側からも統制を掛けられた。まず幕府から規制を掛けられるようになった。1681年の海禁解除後、清からの貿易船の来航が激増して金銀の大量国外流出が始まったことに危機感を抱いた幕府は、貿易制限に舵を切った。そのあおりを受けて1687年以降、琉球の朝貢貿易に総量規制が設けられることになった。しかし渡唐役人そして船長以下乗組員には、貿易業務に対する意欲の向上を図るために一定程度の交易活動が許可されており、主に渡唐役人、乗組員による交易活動の中で幕府、薩摩藩側の規制をかいくぐるような形の密貿易が行われるのを食い止めることは出来なかった[174]。また進貢船等の渡唐役人そして乗組員は私貿易によって多くの利益を得ることが期待できたため希望する者が多く、乗員に割り振られた船内スペースそのものが売買、投機の対象となるほどであった[175]

1630年代以降、琉球の朝貢貿易の元手となる銀の多くは薩摩藩側によって用立てられた。また17世紀末頃から主力輸出品となっていくフカヒレ昆布、干アワビ鰹節といった海産物もまた、薩摩側の手によって琉球にもたらされた[176]。常貢の銅、錫の調達を薩摩藩を通じて行っていたことを含め、琉球は薩摩藩側の援助協力無くしては朝貢と朝貢貿易が維持できなくなっていた[177]。薩摩藩は琉球の対清貿易に関与して利潤を得るように努めたが、19世紀に入るとより統制が強められ、薩摩藩が直接、琉球を通じて入手した中国商品を販売する体制を強化していく[178]

進貢船、接貢船などによって福州の琉球館に持ち込まれた品物は、清側の監督のもとで琉球館内で取り引きされた。一方琉球館には許可を得た商人たちによって中国製品が持ち込まれ、琉球側によって持ち込まれた銀などによって購入された。商取引は活発に行われ、琉球からの進貢船が到着すると福州の町に活気が溢れるようになったとの言い伝えも残っている[179]

琉球側が福州館で買い付けた品物は、当初は生糸、織物が重要視されていたが、清国内での生糸、織物の価格高騰や輸出制限、そして日本国内での生産、流通の本格化によって18世紀に入ると低迷するようになり、変わって薬種が主力輸入品となっていく。薬種などの輸入品は琉球国内で消費される分を除き、薩摩を通じて日本国内に流通していった。薩摩藩は輸出入品に対して統制をかけて貿易利益の追求に努め続けたが、完全な把握は不可能であり一部は抜荷、密貿易の形で輸出品は清側に、そして輸入品は薩摩藩側の手を経ることなく流通した。そして薩摩藩の手を経た琉球経由の中国産品の一部もまた、正規ルートを経ることなく闇で流通していた[180]

19世紀に入ると琉球の朝貢貿易は大きな問題を抱えるようになった。まず清の国力低下につれて海上の治安が悪化し、進貢船が海賊に襲われて積荷が奪われる事態が増加した。そして経済活動が活発化していくのにもかかわらず、琉球館の朝貢貿易の様々な規制は改善されなかったため、貿易発展の阻害要因となっていく。更には琉球側は進貢時に福建の官吏に金品を贈ることが常態化するなど、官吏による汚職や非効率などといった弊害も顕著になりつつあった[181]

北京での進貢

北京紫禁城の太和殿で行われた「萬國来朝」の情景。18世紀乾隆年間のもの。

通例、10月の初め頃に福州に到着する進貢使は、到着後しばしの休養の後、進貢使ら約20名のメンバーで北京へ向けて出発する。出発前、福州の当局者は上京組を餞別する宴席を設けるのが慣例となっていた[182]。規定では進貢使らは北京に12月20日までに到着しなければならなかった。これは元旦に行われる皇帝への拝謁式に参列するためである。天下万民が皇帝を宗主として慕い、清の天下が太平で揺るぎのないものであることを示すために、冊封国からの使節は元旦に行われる朝賀に出席するよう定められていたのである[183]

福州から北京までは約3000kmある。3000kmの道のりを10月初めに出発して12月20日までに北京へ到着するとなると、道中に何か事故が起きると当然、期限に間に合わない事態も発生する。清の初期から乾隆帝の1769年まではは福州の官吏が一名、進貢使一行に同行する形であったが、1769年は期限に間に合わず、年を越してから北京に到着するという事態が発生すると、乾隆帝は福州側の官吏とともに行程中の各省においても進貢使の護送のために人員を随行させるように命じた[184]

なお、19世紀半ば以降の咸豊同治期は、新年以降に北京に到着するようになり元旦の朝賀には参列していない。これは太平天国の乱やアロー戦争等の影響を受けて北京へ向かう行程に支障があったためである。また三藩の乱の時期に当たる1674年、1676年には進貢が出来ず、そして1860年と1862年は上京出来なかった[185]

北京へのルートは清当局によって指定されていた。琉球の進貢使の場合、陸路、そして大運河等を使用する水路があった。現実問題として指定ルートが使えない場合も起きる、その場合、許可を得た上で通常とは異なるルートを取ることもあった。なお、少なくとも往路に関しては通常は陸路を進んだ。それは12月20日までの北京到着という期限が定められているため、陸路よりも遠回りとなる上に、冬季の凍結、そして渇水の影響を受けることが多く、しかも混雑することも多かった水路よりも陸路の方が到着期限を守りやすかったためである[186]

北京には外城の広寧門から入城した。入城時は担当者の出迎えを受け、各国からの朝貢使節の宿泊施設である会同館へ案内される。会同館に着くと使節一行に衣服と日用品が支給された。前述のように北京到着は基本的に12月20日前であり、厳冬期用の衣服は必需品であった。北京滞在中は食料品も配給され、コックやハウスキーパーも派遣された。進貢使ら高位の使者が外出する際には馬車が配車された。北京への往復、そしてこれら北京滞在時の費用は全て中国側持ちであった[187]

進貢使が予定通り12月20日までに北京に到着すれば、正月の祝賀行事に参列することになる。正月行事のハイライトはもちろん元旦に行われる皇帝への拝謁である。元旦、皇帝は紫禁城の正殿である太和殿で、清朝の官吏そして外国使節の拝謁を受ける。また元旦以外にも万寿節と呼ばれた皇帝の誕生日、そして冬至にも拝謁式が行われ、琉球の進貢使も北京に滞在している場合には参列した[188]

進貢使は節目節目で宴席に招かれた。北京に到着するとまず担当部局から「下馬宴」、正月や万寿節など皇帝への拝謁を行った後は皇帝が宴席を設け、進貢使をもてなした。皇帝の宴席では使節に賞賜品を賜った。そして進貢を終え、北京を離れる際にも担当部局が「乗馬宴」の宴席を設けることになっていた[189]

冊封使来琉時の対応

琉球における冊封使の行列

清代においては、琉球側から請封があると皇帝が冊封使の人選を命じた。皇帝が求める冊封使人選の基準は学識の深い重厚な人物とされ、清代は8回冊封使が琉球へ派遣されたが、正・副計16名の冊封使のうち13名が進士であり、うち科挙でトップの成績を取った状元も2名いた[190]。ちなみに清代は明代と較べて冊封使の人選を慎重かつ丁寧に行ったとされている[191]。冊封使は皇帝の代理人として琉球で冊封儀式を執り行うため、それに相応しい衣服や黄蓋(黄色の傘)、龍旗(龍を描いた旗)などが貸与され、亡くなった前国王に対する皇帝の弔辞、そして国王に封じる詔書などを琉球へ持参した[192]

亡くなった先王の論祭礼が執り行われた崇元寺

明代から清で最初の派遣であった1663年の冊封使までは、福州で新たに船を建造して琉球へ向かった。そのため船の完成まで冊封使は福州でかなりの長期間、待たされることになった。特に明代後半には官僚の腐敗が目立つようになって、冊封使が乗船する船の建造費用の流用という問題が発生し、福州の当局者と冊封使との間でしばしば揉め事が起きた。清代になると冊封使は船を借り上げて琉球へ向かうことが通例となったが、船主に賃船料を支払わない代わりに琉球へ商品を持ち出す許可を与えていた。冊封船の乗組員や駕籠かき、銅鑼叩き、ラッパ吹きなどといった随行員の多くの正体は福州の商人たちであった。彼らが個人的に冊封船に商品を持ち込んだことはいうまでもない[193]

冊封使が琉球で行う主な儀礼としては、迎詔儀、論祭礼、冊封礼、謝恩儀などがあった。まず国王とその臣下たちは、冊封船が到着するのを那覇港で出迎えた。到着すると那覇港で皇帝の詔勅の到着を歓迎する迎詔儀が執り行われた。続いて皇帝の代理として故国王を祀る論祭礼が崇元寺で行われた。論祭礼の終了後すぐに冊封礼の準備に取り掛かった[194]

多くの冊封儀礼が執り行われた首里城

冊封礼を迎えるにあたり、冊封使一行が通過する道路は花綱で飾り立てられた。冊封詔書、皇帝からの下賜品は龍や花綱で飾られたみこしに乗って、大勢の見物人が見守る中で宿舎の天使館から首里城へと向かった。首里城で出迎えた国王や臣下たちは、まさに皇帝が首里城に入城するがごとく冊封詔書、皇帝からの下賜品に対して三跪九叩頭の礼を行った。それから音楽が奏でられる中、冊封儀礼が執り行われた。儀式の中核は皇帝から琉球国王に封ずる旨の詔書の朗読である。国王以下は跪きながら朗読を聞き、終了後は皇帝に感謝の意を込めて三跪九叩頭の礼を行う。この時点でこれまで公式には世子であったものが、皇帝から国王に封じられたことになった。その後に行なわれる下賜品の授与時にも国王以下は皇帝に感謝の意を込めて三跪九叩頭の礼を繰り返す。なお詔勅は規定によれば中国に持ち帰ることになっていたが、琉球国王は国の宝とすべく手もとに置きたいとの要請するようになっていた。そしてこれまでの詔勅をきちんと保存していることを冊封使に示すと、国王の要請は認められ、詔勅は琉球側に手渡された。そこで国王はまた感謝の意を込めてひれ伏すのである。詔勅を琉球側に渡す習慣は明代からのもので、これが冊封礼の最後の儀礼であった。そして後日、国王や臣下たちが首里城内で皇帝が居る北方に向かい感謝の意を表す謝恩儀が行われた[195]

冊封使節による貿易とその影響

冊封使が琉球へ向かう際には皇帝からの下賜品を携行した。これも冊封貿易の一環と言えるが、冊封使の随行員たちもまた中国産品を持ち込み、琉球で交易活動を行った。冊封のたびに琉球に持ち込まれる商品の量は多く、琉球王府の重い負担となってのしかかった。持ち込まれた荷物は生糸や織物類、漢方薬の薬草類、書画書籍、工芸品など多岐に渡った[170]

1719年の冊封時は、通常の取引では大量の商品が売れ残ってしまった。売れ残った商品は結局琉球王府が買い取らなければならなくなったが[† 14]、この買取価格を巡って琉球側と中国側とで深刻な対立に発展した。結局琉球側は蔡温を調停役として立てて、琉球側の主張する買取価格に上乗せする形で決着がついたが、買取費用捻出のために琉球王府は民間から銀のかんざし、はたまた銅や錫の食器類までも強制供出させて何とか急場を凌いだ[196]

琉球側としても中国側から吹っ掛けられないように、事前に福州で商品価格の調査等、市況の実地調査を行い、更には琉球側と中国側の銀のレートについての調査も行った。その一方で商品の琉球国内での価格については、出来得る限り情報が冊封使一行に伝わらないように心がけた。そして後には中国側に持ち込みを歓迎する品目や、逆に歓迎されない品目について事前に情報を伝えるようにもした。しかし実際問題として1719年ほどではないにしても、琉球側と中国側との間で商品の評価価格に差が出てしまい、トラブルになるのは避けられなかった[197]

しかし全ての冊封使が持ち込み品物の押し売りをして琉球側を困らせていたわけではない。1800年の冊封使の趙文偕らは、一行の荷物持ち込みを制限して琉球側の負担を減らすように気を配った。後述のように趙文偕らは琉球側の過剰ともいえる接待についても簡素化を求め、費用の節減に努めた[198]

そしてもちろん冊封使一行の帰国時も、冊封船を空にしていたわけではない。琉球側が用意していた主に昆布、アワビ、ナマコなどという海産物を購入し、大量に積み込んだ上で帰国の途についた[199]

念入りな接遇

琉球に滞在中の冊封使は、琉球側からの手厚いもてなしを受けた。前述のように冊封使は総勢約500名という大勢である上に、約140日から250日という長期間、琉球に滞在した。琉球では国王が冊封使に対し、亡き前国王を祀る儀式である論祭終了後の論祭の宴に始まり、冊封後の冊封の宴、その他中秋重陽に催す宴など、計7回の宴席を設けることになっていた[† 15][200]

琉球側は冊封使を迎えるに当たって、数年前から首里城周辺の景観の整備、修理を行っていた。そして天使館と呼ばれた冊封使一行の宿泊施設もきちんと整えた。そして冊封使滞在中は季節の花々を首里まで運び込むような手配も行った[201]

1866年の尚泰冊封時、琉球国王が設けた宴席で出されたメニューが残っている。冊封使に対しては第一膳から第五膳に至る全49品の料理の中には、燕の巣のスープ、スッポンの姿蒸しなどがあり、その他、フカヒレ、アワビ、ナマコ、大ハマグリ、鹿筋を用いた料理など、豪華な酒食が供せられた[202]。前述の1800年に琉球に派遣された趙文偕らは、このような琉球側の厚遇に対してその負担を慮って、待遇の簡素化など経費削減を求めている[203]

実際、大勢の冊封使一行が長期間琉球に滞在し、しかも手厚いおもてなしを行うわけなので、琉球側の負担は多大であった。その上、前述のように冊封使一行が持参する中国製品の買い入れも行わねばならなかった。そのため琉球側は冊封使の来琉する数年前から、経費を捻出するために様々な施策が取られていた。例えば1866年の尚泰冊封の数年前には、冊封用の臨時税が課せられた。また冊封のための資金献納も働きかけられていた。19世紀以降、琉球では一定以上の金額を献納すれば士族に取り立て、より多額の金額を献納すれば譜代の士族とするという、いわゆる売位を行っていた。この売位に関する記録は1800年の尚温冊封時から見られるようになり、その後の尚灝尚育そして尚泰冊封時にも盛んに行われ、琉球王府は献金者に士籍、譜代の家譜を濫給するようになっていた。このように費用の捻出に努めたものの、自力では全額を賄いきれずに薩摩藩から資金を借り入れているのが常であった[204]

琉球からの留学生も学んだ北京の国子監

清当局も冊封使を迎える琉球側の負担に配慮を見せなかったわけではない。冊封使は一行に宗主国としてはずかしくない言動を取るよう、在琉中の様々な禁止事項の指示を行っていた[† 16]。そして1838年の尚育冊封時には道光帝に冊封使一行が琉球に持ち込む中国製品の買い入れで、琉球側が難渋している実態を訴えるとともに、冊封使一行が中国製品を持ち出すことを禁じるべきであるとの上書がなされた。この上書を受けて道光帝は私的に中国製品を琉球に持ち込んで買い取らせ、琉球側を苦しめることは中国の礼儀に反すると指摘して、陋習を改めるよう命じたものの、効果は見られなかった[205]

一方で冊封使の来琉は中国と琉球との文化交流の場ともなった。冊封使は琉球滞在中に碑文等の揮毫を行い、また一行内で文化に関心のある人々は、琉球の人々に詩文や音楽、そして医学などの教授を行った。1808年の冊封使は琉球では詩文、そして書を求められることが多いため、使節に詩文、書に長けた人物を入れるべきとの報告がなされている。そして明代以降の冊封使の多くは丁寧かつ多岐の内容に渡る琉球冊封時の報告書を遺しており、これらの報告書は琉球と中国との交流を示すとともに、重要な歴史資料として活用されている[206]

また清代では冊封使をもてなす7回の祝宴の中で最終宴席である望舟の宴の席上、琉球国王は冊封使に対して北京の官学である国子監に留学する官生の派遣を要請し、認められる慣例であった[207]。国子監での留学年限は3年であり、儒教を中心としたカリキュラムが組まれていた。費用面については勉学のみならず衣食住といった生活面に至るまで全てを清側が持った。帰国後の留学生は琉球の国政で活躍し、また琉球国内での儒学の発展、普及に貢献した[208]

冊封の準備

薩摩侵攻以降、琉球に冊封使を迎える琉球当局は、民間に対して様々な統制を行った。これは前述の琉日関係の隠蔽とともに、薩摩側に清との関係の深さを見せつけて、琉球は清の属国でもあることを認識してもらう必要性があったためである。そのためにも清に琉球が忠実な冊封国であることを示すことが重要であった。つまり冊封使滞在中は日本に関係した事物の隠蔽が図られ、冊封使の目に日本色が無い、中国風の文化、慣習下にある琉球の姿が映るように演出がなされた[209]

まず薩摩藩の在番奉行ら役人や商人たちは、冊封使の滞在中は首里や那覇から離れ、浦添間切の城間村に滞在するようにした。琉球当局は冊封使一行を城間村に近づけないように努力し、もし城間村のことについて尋ねられたら、年貢を納めに来た奄美諸島の責任者の宿がある等の説明をすることになっていた。その一方で薩摩藩関係者の滞在場所は首里、那覇から比較的近く、琉球と清との接触の情景を垣間見ることが出来た。つまり琉球としては薩摩側には琉球と清との親密な関係をアピールすることができた[210]

記録が残っている1866年の尚泰の冊封時の場合、冊封使を迎えるに当たって「冠船惣横目方」という臨時の役職が設けられた。この「冠船惣横目方」のもとで様々な施策、取り締まりが実行された。まず冊封使の到着前年、「冠船惣横目方」は47条に渡る「冠船付締方申渡条々」という統制令を公布する。「冠船付締方申渡条々」ではまず、誰もが礼儀作法を守り、守礼之国との名を汚さぬよう求めた。そしてまず正しい中国文化が行き届いている印として、皇帝が着用する黄色の衣服の禁止など、中国文化、習慣の徹底。言葉、衣服、書物等、日本風の風俗、物品の禁止。そして冊封使一行が持ち込む中国産品の評価貿易に関する禁令などが定められていた。この統制令に違反した場合、罰金や入牢等の罰則が科せられた[211]

これらの禁令を守らせるために当局は冊封使到着前年から見回りを開始した。「冠船惣横目方」は、冊封儀式の主役である冊封使や国王の警備も担当していた。警備には大勢の人員を要すため、他の部署や地方から応援を要請していた。また冊封使帰国後に中国人が琉球に居残らないよう、調査、監視する役割も担っていた[212]。琉球は清や諸外国に対して琉球には遊女はいないと伝えていたため、冊封使滞在中は遊女を移住させ、移住先でも商売を行わないよう取り締まった。また遊女を移住させた関係上、冊封使一行の犯罪が多発することを懸念して、一般女性の行動や衣服に禁令を出した[213]

また冊封使一行が持ち込む中国産品の評価貿易に関しては、基本的に民間人が冊封使一行との商取引を行うことを禁じた。そして中国側に高い値段で中国産品を売りつけられることを警戒し、取引価格の情報が漏れないように情報統制を行った。しかし冊封使一行が身の回りの生活用品や食料などを全く購入出来ないというのはさすがに現実的ではなかった。そのため上層部やその従者には琉球側が必要な物品を用意し、それ以外は市場で物品の購入が可能となった[214]


注釈

  1. ^ 波平(2014)p.25で説明されているように、中国の王朝中心の国際秩序についてはこれまで「冊封体制」、「朝貢体制」などと呼ばれてきたが、例えば李(2000)pp.28-32、pp.42-48は、冊封は中国の王朝と諸外国との関係性の一部でしかないことを指摘しており、壇上(2013)pp.304-308では、中国王朝と朝鮮、琉球、ベトナムなど冊封国との関係性もそれぞれ違いが見られ、「冊封体制論」等の概念を先行させて中国と周辺諸国との関係性を判断する危険性を指摘している等、「冊封体制」等の用語ひとつで説明できる関係性ではないとされているため、周辺諸国との関係等の用語を用いることにする。
  2. ^ 檀上(2016)pp.299-304では武寧が初の冊封ではなく、先代の察渡も冊封されていたと主張している。
  3. ^ なお、原田(1993)p.9-12にあるように、18世紀半ばの尚穆以後、皮弁冠は十二縫七采玉で玉の総数は266個と、七種の玉を266個ちりばめたものとなった。これは明の皇帝の十二縫五采玉十二、つまり五種類の玉を十二列十二個ずつちりばめた皮弁冠よりも遥かに豪華なものになっており、詳細に見ると明代との変化はあった。
  4. ^ 豊見山(2004)pp.288-290では、先島諸島などから王府が「朝貢」を受ける、朝貢、支配の多重構造が形成されていたと指摘している。
  5. ^ 上原(2010)p.313によれば、琉球側は朝鮮出兵に際し兵糧米の供出を行ったことを明に説明しておらず、明側も特に問題視した形跡は無い。
  6. ^ 真栄平(1985)p.42によれば、福州陥落という情勢下で実施された薩摩藩による八重山諸島の警備兵派遣は、翌年には撤収されたとしている。これは情勢が落ち着いたと判断されたためと推察される。
  7. ^ 胡(2018)によれば、この時、清側に引き渡された明から下賜された勅書のうち、1629年に作成された崇禎帝が尚豊を琉球国中山王に封じる詔書が旅順博物館に現存している。なお尚豊の冊封は詔書が作成された4年後の1633年に行われている。
  8. ^ 西里(2010)p.33、渡辺(2012)p.106によれば、1650年に慶賀使を派遣したが、海難事故で行方不明となったとの琉球側の弁明は偽りであり、実際には慶賀使を派遣していなかったと見られている。
  9. ^ 渡辺(2012)pp.179-186によれば、薩摩側に内密で、琉球が漂着民相手に交易活動を行っていた場合があることが確認されている。
  10. ^ 夫馬(1999)p.ⅴによれば、例えば1756年に琉球に派遣された冊封使の周煌は、琉球で手に取った四書訓点が付けられていたのを見つけ、この書物を福州で入手したとの琉球側の嘘を見抜いている
  11. ^ 伍(2016)p.2によれば、柔遠駅は書経、舜典の「遠来の客を優遇し、朝廷が誠意を持って懐柔の意思を示す」という意味の「柔遠有邇」からその名を採ったとする。
  12. ^ 深澤(1999)pp.23-28では、「存留通事」がいわば機密費を使っていた実態を紹介している。
  13. ^ 深澤(2005)p.477によれば、琉球館内の天后宮で1692年に行われた改修費用は、琉球館駐在の琉球王国官吏による支出で賄われた。
  14. ^ 呂(2004)p.90によれば、1719年の冊封使以降、おそらく1800年の冊封使からは売れ残り商品を琉球王府が買い上げるシステムが確立したとする。
  15. ^ 鄒、高(1999)p.124、夫馬(1999)p.123によれば、1800年に行われた尚穆の冊封時は、前年に乾隆帝が没したため7回の宴席とも行われなかった。
  16. ^ 実際問題として約500名の冊封使一行が数カ月間琉球に滞在する間には、どうしてもトラブルは発生してしまう。麻生(2013)pp.417-418には、宝島人(琉球側が名称を詐称していた日本人のこと)との交易を求めたり、遊女を探すために遠出を試み、琉球当局とトラブルになったケースが紹介されている。
  17. ^ 胡(2002)によれば、清の皇帝から琉球国王に対し、康熙帝から同治帝までの9回(乾隆帝と道光帝は2回、他の皇帝は1回)、扁額を下賜したとしている。
  18. ^ 鎌田、伊藤(2016)p.12によれば、幕府としては薩摩藩を通じて琉球を間接統治している立場にあり、また琉球自体が日中両属状態にある現状からの判断であるとする。
  19. ^ 上原(2016)pp.426-434では、島津斉彬による琉球の対外貿易本格解禁政策の影響を受けて、渡唐役人たちがこれまでよりも積極的に清での商品仕入れ、販売に乗り出すようになり、琉球王府の統制が困難となっている事例を紹介している。
  20. ^ 西里(2005)p.640によれば、銅を福建側に引き渡した後もトラブルは続いた。福建側は銅の代金を支払うとしたが、琉球側は贈与であるとして代金の受け取りを拒否したのである。これは朝貢貿易以外の貿易の開始をもくろむ福建側に対し、琉球側は朝貢貿易以外の貿易を嫌ったためであると考えられる。結局、福建側から押し付けられるように代金の受け取りを行うことになった。
  21. ^ 伊藤(2016)p.174によれば、清代の冊封において対象者が元服前で元服を待って冊封を行わざるを得なかったケースは、尚泰以外は無かった。
  22. ^ マルコ(2017)pp.218-219によれば、日本側の主張はお雇い外国人の一人として日本の近代法体系の整備に活躍した、ボアソナードのアドバイスに基づくものとしている。

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