武内宿禰 記録

武内宿禰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 06:05 UTC 版)

記録

日本書紀

大臣武内宿祢 月岡芳年

武内宿禰の生まれについて景行天皇[原 1]によると、天皇は紀伊に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに屋主忍男武雄心命が遣わされた。そして武雄心命が阿備柏原(あびのかしわばら:現・和歌山市相坂・松原か[6][注 3])にて留まり住むこと9年、その間に影媛との間に儲けたのが武内宿禰であるという。また成務天皇[原 6]では、武内宿禰は成務天皇と同日の生まれ(景行天皇14年、月日不詳)とする[2]

その後、景行天皇(第12代)から仁徳天皇(第16代)までの5代に渡り武内宿禰の事績が記されている。

第12代景行天皇
  • 景行天皇25年7月3日条、同27年2月12日条
    武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した[2]
  • 景行天皇51年1月7日条、同年8月4日条
    天皇は群卿を招き数日の宴を催したが、武内宿禰と皇子の稚足彦(のちの成務天皇)は非常に備えて参じなかった。これを賞賛した天皇は特に目をかけ、稚足彦を皇太子に、武内宿禰を「棟梁之臣」に任じた[2]
第13代成務天皇
  • 成務天皇3年1月7日条
    成務天皇は武内宿禰を「大臣」となし、同日の生まれであることから武内宿禰を寵した[2]
第14代仲哀天皇
  • 仲哀天皇9年2月6日条、2月22日条
    仲哀天皇が遠征途上で死去すると、神功皇后と武内宿禰とは天皇の喪を秘した。そして四大夫に宮中を守るよう命じたのち、武内宿禰自身は密かに天皇の遺骸を海路で穴門へ運び、豊浦宮において殯を行なったのち、皇后に復命した[2]
武内宿禰と神功皇后歌川国貞画)
神功皇后
  • 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年3月1日条
    神功皇后は斎宮に入り、自ら神主となって仲哀天皇に祟った神の名を知ろうとしたが、その際に武内宿禰は琴を弾くことを命じられた[2]
  • 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年4月3日条
    神功皇后が神田に儺河(福岡平野を流れる那珂川)の水を引きたいと思い、溝を掘ったが大岩にあたった。武内宿禰が皇后に召されて剣・鏡を捧げ神祇に祈ると、溝は通じた[2]
  • 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年12月14日条、神功皇后摂政元年3月5日条
    仲哀天皇の崩御を聞いて反乱を起こした麛坂皇子忍熊皇子兄弟に対し、武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)を抱いて南海に出て紀伊水門に至る。そして武振熊和珥臣遠祖)とともに数万の軍を率い、山背、菟道(宇治)を経て、逢坂(京都府滋賀県境の逢坂山)にて忍熊皇子軍を破った[2]
  • 神功皇后摂政13年2月8日条、同13年2月17日条
    皇后の命で太子を伴って角鹿の笥飯大神(福井県敦賀市氣比神宮)を拝し、帰還後に開かれた宴では太子に代わって皇后に返歌した[2]
  • 神功皇后摂政47年4月条
    新羅と百済とで貢物の問題が起こり、皇后が誰を百済に遣わしたら良いか天神に問うたところ、天神は武内宿禰をして議を行わしめ、千熊長彦を使者とするよう答えた[2]
武内宿禰と応神天皇歌川国芳画)
第15代応神天皇
  • 応神天皇7年9月条
    高麗人・百済人・任那人・新羅人らが来朝した際に、応神天皇の命でそれら韓人を率いて韓人池を造った[2]
  • 応神天皇9年4月条
    天皇の命で武内宿禰が筑紫へ百姓の監察に遣わされた際、弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言した。天皇は武内宿禰を殺すため使いを出したが、真根子壱伎直祖)が身代わりとなって殺された。武内宿禰は朝廷に至って天皇に弁明すると、武内宿禰と甘美内宿禰は探湯で戦うこととなったが、武内宿禰が勝った[2][注 4]
第16代仁徳天皇
  • 仁徳天皇元年1月3日条
    応神天皇の子の大鷦鷯尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けた[2]
  • 仁徳天皇50年3月5日条
    茨田堤に雁が卵を産んだことから、仁徳天皇と武内宿禰とは長生を讃えて歌を詠みあった[2]

その後『日本書紀』には事績の記載は見えず、允恭天皇(第19代)5年7月14日条に至って武内宿禰の墓の伝承が記されている。

古事記

古事記』においても、建内宿禰(武内宿禰)に関して『日本書紀』と同様の説話が記されている。

その他

三国史記』には、倭王の命を受けて新羅を攻め、舒弗邯昔于老を処刑した于道朱君(うとうしゅくん)という倭人の将軍が登場するが、復元された上代日本語における「ウチスクネ(内宿禰)」の発音に対応できること、暦年研究から助賁王沾解王の在位年代が神功皇后の活動年代と同時代と見られることなどから、「于道朱君」はすなわち日本書紀の武内宿禰であり、武内宿禰は実在した人物であるとする説が唱えられている。

『因幡国風土記』逸文[7](古風土記逸文としては鎌倉時代を遡り得ない参考条文[8])によると、仁徳天皇55年3月に武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残して行方知らずとなったという。同文では続けて、因幡国法美郡の宇倍山山麓には武内宿禰の霊を祀る社(鳥取県鳥取市宇倍神社)があるが、武内宿禰は東夷を討った後この宇倍山に入って行方知らずになったのだと伝える。

そのほか『公卿補任』では薨年未詳で295歳にて死去(一説として仁徳天皇55年に年齢未詳で死去)[9]、『水鏡』では武内宿禰は仁徳天皇55年に280歳で死去[10]、『帝王編年記』では仁徳天皇78年に年齢未詳(一説として312歳)で死去したといい[11]、他にも諸伝説がある。なお、そのうち『帝王編年記』では、死去の地として甲斐国説、美濃国不破山説、大和国葛下郡の室破賀墓説(奈良県御所市室宮山古墳か)を挙げる[11]。『宋史』日本伝では紀武内と表記し、307歳とする。


注釈

  1. ^ a b 生年の景行天皇14年は、『日本書紀』成務天皇3年正月己卯(7日)条に成務天皇と同日の生まれと記載されることによる。
  2. ^ 読みに関しては、「タケシ(猛し)」はク活用であるため、「タケウチ」としか読めないとする指摘がある。なお、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)の「ウマシ」はク活用・シク活用の両用があるため、「ウマシウチ」と読みうる (『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 173)。
  3. ^ 和歌山市松原では、武内宿禰の産湯に使ったという「武内宿禰誕生井」が伝わる(武内宿禰誕生井(和歌山県)より)。
  4. ^ この伝説が、後世の幸若舞百合若大臣』に変化したとする説が挙げられている(金関丈夫「百合若大臣物語」(『朝日新聞』(西部版)、昭和28年10月1日)、「中国の百合若」(『九州文学』昭和29年1月号)など)。

出典

  1. ^ a b c 武内宿禰(国史).
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 武内宿禰(古代氏族) & 2010年.
  3. ^ 『新編日本古典文学全集』の「古事記」および「日本書紀」。
  4. ^ 『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、p. 343。
  5. ^ 小野里了一 & 2015年.
  6. ^ 屋主忍男武雄心命(古代氏族) & 2010年.
  7. ^ 宝賀寿男 『因幡国風土記』逸文<ref group="原">『武内伝』所引『因幡国風土記』逸文「武内宿禰」。 - 武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)223コマ参照。
  8. ^ 秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系)、岩波書店、昭和33年。
  9. ^ 『国史大系 第9巻』所収『公卿補任』前編(国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ参照)。
  10. ^ 『国史大系 第17巻』所収『水鏡』(国立国会図書館デジタルコレクション)195コマ参照)。
  11. ^ a b 『新訂増補国史大系 第12巻』所収『帝王編年記』 吉川弘文館、p. 75。
  12. ^ a b c d 武内宿禰(古代史) & 2006年.
  13. ^ 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ、2012年10月13日更新版)。
  14. ^ 「宮山古墳」『日本歴史地名体系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。
  15. ^ 『国造制の研究 -史料編・論考編-』(八木書店、2013年)p. 218。
  16. ^ 『国造制の研究 -史料編・論考編-』(八木書店、2013年)p. 220。
  17. ^ 古賀寿 「高良大社」『国史大辞典』 吉川弘文館。

原典

  1. ^ a b 『日本書紀』景行天皇3年2月庚寅朔(1日)条。
  2. ^ 『日本書紀』孝元天皇7年2月丁卯(2日)条。
  3. ^ 『日本書紀』応神天皇9年4月条。
  4. ^ 『古事記』孝元天皇段。
  5. ^ 『日本書紀』仁徳天皇元年正月己卯(3日)条。
  6. ^ 『日本書紀』成務天皇3年正月己卯(7日)条。
  7. ^ 『日本書紀』允恭天皇5年7月己丑(14日)条。


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