戸田忠友
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経歴
弘化4年(1847年)8月22日、戸田家分家の7000石の旗本である戸田忠偲の長男として江戸浜町の屋敷で生まれる。母は戸田本家8代戸田忠翰の娘である。文久2年(1862年)5月28日に江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の小姓となり、12月16日に従五位下に叙位し、元治元年(1864年)5月24日に安房守に任官した。
元治2年(1865年)、本家の宇都宮藩主戸田忠恕(同年齢で母方の従兄にあたる)は天狗党の乱鎮圧失敗などにより、幕命により強制隠居・謹慎を命じられ、正月25日、忠友が本家の家督を継いだ[1]。幕府はさらに加えて忠友を陸奥棚倉藩に左遷しようとまでしたが、一門家老の戸田忠至の尽力により転封は免れた。この功績により、忠友は慶応3年(1867年)に1万石を忠至に分与して支藩高徳藩を立藩させている。このため、宇都宮藩は6万7850石となった。
慶応3年(1867年)7月25日に奏者番・寺社奉行を兼任する形で任命され、慶応4年(1868年)2月16日まで務めた。戊辰戦争では佐幕派として第15代将軍・徳川慶喜の助命嘆願を行なうべく宇都宮藩兵100人を伴って2月に上洛しようとしたが、道中の大津湊で抑留された。このため、その後3月から4月にかけて藩内で起きた野洲世直しや宇都宮戦争を自ら陣頭指揮することが出来なかった。6月8日には新政府から隠居命令を出されて謹慎する。新政府は忠友を佐幕派とみなしてこれに代わる藩主を擁立しようとしたが、藩内で反対運動が起こったため、明治元年(1868年)11月に隠居を取り消して許している。
明治2年(1869年)6月2日、新政府から功績があったとして1万石を加増される[2]。直後の版籍奉還で宇都宮藩知事となり、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免職された。
明治6年(1873年)3月10日に権少教正に任じられ、6月29日に少教正、明治7年(1874年)6月8日に権中教正に任じられ、学校の創設資金などを供出するなどしている。また、神職(宇都宮二荒山神社宮司)を歴任した。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治20年(1887年)12月26日に正五位に昇叙され、明治25年(1892年)7月に従四位、明治30年(1897年)7月に正四位に昇叙され、明治36年(1903年)に従三位、大正元年(1912年)に正三位、大正13年(1924年)に従二位・勲三等瑞宝章に昇叙された。
大正13年(1924年)2月10日に死去[1]。享年78。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 188.
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 189.
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