憲兵 (日本軍)
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憲兵に対する評価
陸軍軍人軍属違警罪処分例[25] により、陸軍の軍人・軍属の犯した違警罪は憲兵部(憲兵部が置かれていない地では警察署)で処分できたこともあり、一般兵にとっては監軍護法のため何かとやかましいことを言う「目の上のタンコブ」的存在であり、またその職務上から高圧的態度をとる憲兵もいたため、イメージは良くなかった。
憲兵は、陸海軍司法警察官として陸海軍大臣の指揮を受けて軍事警察を司っており、平時では原則として一般国民を対象とすることはない。ただし、憲兵は司法警察官の身分も有し、地方警察が捜査することが難しい政財官界の有力者を捜査するにあたっては、司法大臣と検事総長の指揮を受けて一般国民に対して司法警察官の権限を例外的に行使するものとされていた。
しかし、治安警察法及び治安維持法等を一般警察同様に一般国民に対しても適用する立場であったことから、次第に反戦思想取締りなど、国民の思想弾圧にまで及ぶこととなった。1923年(大正12年)9月の関東大震災直後に東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長、甘粕正彦憲兵大尉が大杉栄、伊藤野枝及び橘宗一を殺害するという事件を起こした(甘粕事件、事件発覚後、憲兵隊の捜査により起訴された甘粕大尉及び森慶次郎憲兵曹長は軍法会議で有罪判決を受けて服役、また監督責任を問われて憲兵司令官小泉六一少将らは停職となっている)。帝国議会の開会中は10名ほどの特務憲兵が詰め、議員の発言を確認していた。事前に政府や軍部に批判的な政党・議員の発言内容や攻撃材料を入手する事も憲兵の任務だったと言う。東條英機の首相在任中には憲兵をして反対派を圧倒し(中野正剛事件など)、東條もこれを積極的に活用した事からこれらを「東條憲兵」と呼んだ。戦後、東條は周囲に「憲兵を使いすぎた」ともらしたという。大戦末期には戦争終結、和平工作をしていた吉田茂(元駐英大使、戦後、首相)のもとにスパイを送り込み、陸軍刑法第99条(造言飛語罪)の容疑で吉田らを逮捕した(ヨハンセングループ)。
さらに憲兵は戦中の占領地治安維持の任務を負っており、最初、満州において逮捕した容疑者を裁判に付さず憲兵隊が独断で処刑する事態が横行した。この背景として、最初満州国で、暫行懲治盗匪法において、いわば東洋法の流れを引継いで、匪賊掃討にあたって、旧清朝にもあった「臨陣格殺」として部隊が匪賊を戦闘行為で殺害できる外に、「裁量処分」として捕えた匪賊を軍司令官や急迫の場合は討伐隊の指揮官である高級警察官が現場で裁量で処理できることが定められていた[26]が、後者の裁量権限を用いての殺害処理が「厳重処分」の名で一般化していたことが指摘できる[27]。通常の形で逮捕した容疑者に対し、一般の憲兵隊員らは本来このような権限は全くなかったが、憲兵らは軍の中でもさらに特権意識を持っていたため、自身らが行っても問題になることはあるまいと嵩を括り独善的な処分が横行していったことが推察される。また、捜査・取調の帰結として拷問は日常化し、冤罪の発生等も十分に疑える状態であった[28]。元憲兵の土屋芳雄の証言からは、拷問の結果として死なせてしまった、あるいは、拷問しても何も出て来ず冤罪としか思えない場合においても、拷問があまりにひどかったため後で面倒なことにならないように、かえって始末するといったことも横行していたことが窺える[29]。
こういった姿勢は、満州に限らず、日中戦争や太平洋戦争においても、他の占領地にも引き継がれ、憲兵は日本軍の恐怖支配の代名詞のようになっていった。 太平洋戦争初期のシンガポール陥落時に大量の華僑虐殺が起きているが、所属の第25軍司令部からの命令とはいえ、憲兵隊もこの実施の中心部隊一つとして唯々諾々と虐殺を実行している[28]。また、マレーシアのクアラルンプールの警備隊長の幸田蔵六陸軍中佐が地位を利用して収賄等の不正蓄財を働き憲兵隊に逮捕されたとき、幸田自身は軍法会議で降等のうえ懲役刑3年となった程度で済んだが、憲兵隊は幸田が収容所から出して愛人として囲っていた白人の外国人女性まで逮捕、取調でこの女性が2階から おちて死亡している[28]。憲兵隊はスパイ容疑で逮捕したものであり、飛び降り自殺としているが、幸田の不正蓄財等よりも白人女性をこのような形で愛人にしていたことがスキャンダルとして国際的に広まるのを嫌っての殺害ではないかとの説もある。
一方で、身命を賭して職務に忠実であった事例として、相沢事件で東京憲兵隊長の新見英夫憲兵大佐は永田鉄山陸軍省軍務局長を守ろうとして重傷を負った。また、2.26事件の際、叛乱部隊が占拠する首相官邸から岡田啓介首相を救出したのは東京憲兵隊所属の憲兵たちであった。
戦後のBC級戦犯裁判で有罪となり処刑された者は1,000名にのぼるが、その3割を憲兵が占めた。この高い比率は、憲兵が一定の地域に駐留して職務に当たるため顔と名前を覚えられやすいこと、また他部隊が戦争犯罪に関った場合、その後移動・壊滅するなどして訴追が困難になったことが影響している。1969年(昭和44年)4月には靖国神社境内に「守護憲兵之碑」が建立されている。
- ^ “コトバンク - 憲兵”. 2020年6月15日閲覧。
- ^ 連合国最高司令官指令(SCAPIN) (1945/10/17), SCAPIN-156: DEMOBILIZATION OF JAPANESE MILITARY POLICE
- ^ 憲兵条例は明治31年勅令第337号によって全面改正された。更に、昭和4年勅令第65号により憲兵条例は憲兵令に改題された。
- ^ a b c 『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会(1959年)、165-167頁
- ^ a b c d e f 大日方純夫 『日本近代国家の成立と警察』 校倉書房 p.135~136
- ^ 明治43年勅令第301号により改正され、朝鮮駐箚憲兵条例(明治43年勅令第343号)により廃止された。
- ^ 明治43年勅令第301号。
- ^ 明治29年5月25日勅令第231号。
- ^ 昭和20年勅令第162号(同年4月1日施行)による憲兵令の改正。
- ^ 昭和20年軍令陸第17号。『官報』第5531号(昭和20年6月22日)、リンク先の2コマめ。
- ^ 『官報』第2408号、大正9年8月11日。
- ^ 『官報』第2765号、昭和11年3月24日。
- ^ 当時は、参謀は独立した一つの兵科区分であった。
- ^ 1879年(明治12年)10月10日改正の陸軍武官官等表。
- ^ 昭和15年勅令第581号。
- ^ 昭和17年勅令第798号。
- ^ 1882年(明治15年)「憲兵将校下士ハ司法警察官トシ卒ハ巡査ト同ジク司法警察ノ事務ヲ行ハシム」(明治15年5月布告第23号)
- ^ 明治32年勅令第368号により設置された。
- ^ 昭和12年(1937年)勅令第378号により設置された。
- ^ 明治28年勅令第111号。
- ^ 1935年(昭和10年)の旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・旧制実業学校)への進学率は18.5%に過ぎなかった。昭和初期においても8割以上が小卒だったということになる。
- ^ 全国憲友会連合会編纂委員会『日本憲兵正史』全国憲友会連合会本部、1976年 P.1411
- ^ このため、「乗馬兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(明治38年勅令第208号)では、憲兵を補助するために指定される者は乗馬兵科に限られていた。「各兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(大正12年勅令第441号)により、乗馬兵科に限られなくなった。
- ^ 警察官の警察手帳に相当する身分証明書。
- ^ 明治19年勅令第44号。
- ^ “滿洲國六法全書 : 滿日對譯 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. 国立国会図書館. p. 133. 2023年11月7日閲覧。
- ^ 上田 誠吉『司法官の戦争責任―満洲体験と戦後司法』花伝社、1997年5月1日。
- ^ a b c 『日本憲兵正史』研文書院(発売)、1976年、758-759,975-978,990-991頁。
- ^ 『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞社、1991年2月20日。
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