大久保忠方
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄5年6月15日(1692年7月28日) |
死没 | 享保17年10月3日(1732年11月20日) |
改名 | 伝吉郎(幼名)、忠方 |
戒名 | 現成院円山了智 |
墓所 | 東京都世田谷区太子堂の教学院 |
官位 | 従五位下加賀守、従四位下、大蔵少輔、大炊頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家継→吉宗 |
藩 | 相模小田原藩主 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 |
父:大久保忠増、母:石井氏 養母:松平忠弘の娘 |
兄弟 | 忠方、石川総陽、宇津教保、宇津教逵、岩姫ら |
妻 |
正室:柳沢吉保の養女・幾子[1] 側室:志摩氏 |
子 | 忠興、忠紀、石川総候正室、忠章、松平忠俔婚約者 |
生涯
元禄5年(1692年)6月15日、4代藩主・大久保忠増の6男として江戸で生まれる。兄が早世したために世子に指名され、正徳3年(1713年)の父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の宇津教保に6000石を分与している。
藩財政が苦しかったため、父のように幕閣入りはせず、倹約による財政再建に努めた。しかし物価高騰で領民は困窮し、小作人は増加して農業は衰退し、小田原宿助郷騒動が起こるなどして藩内は混乱が続き、財政難も解消されなかった。
享保17年(1732年)10月3日に江戸で病死した。享年41。跡を長男の忠興が継いだ。
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