北条政子 名称

北条政子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 02:32 UTC 版)

名称

本人が「北条政子」を名乗った事実は無く、後世の便宜上の歴史用語に過ぎない[16][17]。「本名」は不明と言われることもあるが[18]実名と現代日本で言う本名は別概念であり、前近代日本に本名(=戸籍名)なる概念は無いとか[19]、前近代日本では現代と人名の仕組みが大きく異なり通称も公文書上の社会的名称のため、強いて言えば「本名」は複数あるなどと指摘されている[20]。最終的な対天皇の格式名称は本姓+諱の従二位平(朝臣)政子(吾妻鏡)。

「政子」の(成人名、天皇に対する名乗り)は、夫の死から19年後の建保6年(1218年)、朝廷が従三位の位を授与するのに際して、位記などの文書に記載するため、3年前に死去した父時政の一字(偏諱)を取って授けた名前であり、それ以前の実名幼名または諱)は不明[21]。嘉字(良い字)+子型の人名は官位を受けるときなどに名乗るもので、当時の社会通念上、幼名(出生名)に政子とつけることはない[21]。幼名は鎌倉時代末期成立の『真名本曾我物語』では「万寿」、室町時代の『仮名本曾我物語』では「朝日」となっているが、信憑性は不明[22]。中世の女性は、外向けには実名を名乗らないのが社会通念であり(忌み名のタブー)、娘時代の呼称は「大姫」(在地領主の長女の意)、公文書には「平氏女」(たいらのうじのにょ)と署名していたと推測される[16]

諱を受けた当時の一般的な呼称は「尼御台所」[21]。現代日本でも目上の人を呼び捨てにすることは非礼とされるが、この時代は実名呼称回避の慣習が特に強力な時代であり、2代将軍源頼家ですら北条一門の実名を呼んだことが確執の一因になったほどであった(吾妻鏡)[23]。親や夫は既に死去しているうえ、出家の身である彼女が日常的に法名通称ではなく「政子」を名乗り、かつ人々に呼称された可能性はほぼない[21]。そもそも前近代日本では男女を問わず通称の方が社会的名称であり、名字(苗字)+実名で公文書に書かないため、そのような人名表記のほとんどは現実の名乗りや呼称と異なる後世の便宜的な歴史用語に過ぎない[24]

史料上での呼称は、同時代の『愚管抄』では「時ママガムスメ、実朝頼家ガ母」「二位尼」[25]、甥の泰時が編纂した御成敗式目では「二位殿」(第7条)[26]、幕府の正史『吾妻鏡』では基本的に御台所[27]、頼朝没後に変化し尼御台、三位家、二位家、禅定二位家、二品禅尼、二位殿など。平政子は当時の呼称ではなく、源頼家の初出の際の説明(建久十年(1199年)己未二月大)でのみそう言及される[注 3]。南北朝時代の『神皇正統記』では従二位平政子[28]、江戸時代の『読史余論』(新井白石)では二位殿、『日本外史』(頼山陽)では政子[29]、『大日本史』では「源頼朝妻北條氏、名は政子」「政子」[30]、大正2年の日本史概説書では「政子」「二位ノ尼」「尼将軍」[31]となっている。

文部科学省教科書調査官高橋秀樹の調べによると、明治・大正期にも「政子」「平政子」の表記はあっても北条政子はなく、ようやく昭和13年(1938年)の人名辞典に平政子との併記を確認できる[32][注 4]。昭和15年(1940年)の日本史概説書では「頼朝の妻政子[34]」。その後「北条政子」が一般化した理由は明確でないが、『日本外史』が時政の継室を「牧氏」と記載したように、江戸時代以来、実名が不明な過去の女性を、出自を明らかにするため実家の名字・苗字を付けて記載していた慣行が流用された可能性がある[32]

なお大化元年の「男女之法」により公民の氏姓(本姓)は父系継承になり、一生変わらないのが原則のため[35]、「源政子」は誤りである。鎌倉将軍家を継承した藤原頼経ですら、養子に入っていないため源氏に改姓できなかった(明月記[36]。古代のウジカバネ公用は明治4年に廃され、現行法の「氏」とは本姓(源平藤橘など)でなく北条・足利・徳川などの名字(苗字)であり、直接の関係はない[37]。頼朝に名字は無い[38]。夫婦異名字の例として「北条政子」を挙げるのは不適切である(政子の妹の稲毛女房は吾妻鏡では夫婦同名字)[39]


注釈

  1. ^ 坂井は当時の北条時政クラスの武士は側室は持たなかったと指摘した上で、祐親の娘が政子から時房までの子女を生んだ後に死去し、その後で時政は牧の方と再婚したとする見解を取っている[5]
  2. ^ 真名本『曾我物語』巻三に「安元弐年丙申三月中半(なかば)のころより、兵衛佐殿は、北条の妃(ひめ)に浅からぬ御志に依て、夜々通はんとせし程に、姫君一人御在(おはしま)す(原文は漢文)」という記述がある[7]。通説では、「安元2年(1176年)3月」より、頼朝が政子の元に通い始めて、やがて姫君(大姫)が生まれたと解釈される[8][9]が、「安元2年(1176年)3月」は頼朝が政子に通い始めた結果、大姫が生まれた時期を指すとする解釈もある[10]。なお、後者の解釈によれば、伊東祐親が頼朝と政子の交際を知ったことが、頼朝と娘・八重姫を引き離して、2人の間の子である千鶴丸を殺害した直接の原因であったとしている[11]
  3. ^ 頼朝や頼家・実朝もほとんどは「先武衛」や「将軍家」など、当時の地位を反映した通称で記述される。
  4. ^ ただし高橋は言及していないが、昭和7年(1932年)にも「北條政子[33]」表記を採る書籍がある。

出典

  1. ^ 永原慶二監修、貴志正造訳注『新版 全譯吾妻鏡 第二巻自卷第八至第十六』、新人物往来社、358頁(建久十年己未二月大)
  2. ^ “安養院 - 鎌倉市観光協会 | 時を楽しむ、旅がある。~鎌倉観光公式ガイド~”. www.trip-kamakura.com. 2024年1月30日閲覧
  3. ^ 坂井孝一 2021, p. 42-44.
  4. ^ 坂井孝一 2021, p. 48-51.
  5. ^ 坂井孝一 2021, p. 50-51.
  6. ^ 保立道久 2015, p. 311・313(系図).
  7. ^ 坂井孝一 2021, p. 90-91.
  8. ^ 坂井孝一 2021, p. 90-95.
  9. ^ 呉座勇一 2021, p. 26-27.
  10. ^ 保立道久 2015, p. 309-310.
  11. ^ 保立道久 2015, p. 307-315.
  12. ^ 山本みなみ 2021, p. 83.
  13. ^ 石井進 1974.
  14. ^ 坂井孝一 2020.
  15. ^ 永井晋 2000, p. 135-159.
  16. ^ a b 野村育代 2000, p. 7.
  17. ^ 高橋秀樹 2004, p. 1–4.
  18. ^ 吉海直人「北条政子」は本名ではなかった─大河ドラマの基礎知識─、2022年02月08日
  19. ^ 小谷野敦『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係ないのか』青土社、2011年、141-142頁
  20. ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、278頁
  21. ^ a b c d 高橋秀樹 2004, p. 2.
  22. ^ 高橋秀樹 2004, p. 2–3.
  23. ^ 大藤修 2012, p. 83.
  24. ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、244、252、291-297頁
  25. ^ 田端泰子 2003, p. 197–199.
  26. ^ 田端泰子 2003, p. 196.
  27. ^ 五味文彦 2007, p. 28.
  28. ^ 山田孝雄 1932, p. 516.
  29. ^ 高橋秀樹 2004, p. 3.
  30. ^ 山路禰吉 1912, p. 497.
  31. ^ 本多浅治郎 1913, p. 267.
  32. ^ a b 高橋秀樹 2004, p. 4.
  33. ^ 雄山閣編集局編 1932, p. 3.
  34. ^ 渡邊幾治郎 1940, p. 124.
  35. ^ 洞富雄『庶民家族の歴史像』校倉書房、1966年、183頁
  36. ^ 高橋(1966)15-16頁
  37. ^ 井戸田博史『氏と名と族称 その法史学的研究』法律文化社、2003年、105頁
  38. ^ 武光誠『名字と日本人 先祖からのメッセージ』文芸春秋、1998年、86頁
  39. ^ 高橋秀樹 2004, p. 18.


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