北条政子
注釈
- ^ 坂井は当時の北条時政クラスの武士は側室は持たなかったと指摘した上で、祐親の娘が政子から時房までの子女を生んだ後に死去し、その後で時政は牧の方と再婚したとする見解を取っている[5]。
- ^ 真名本『曾我物語』巻三に「安元弐年丙申三月中半(なかば)のころより、兵衛佐殿は、北条の妃(ひめ)に浅からぬ御志に依て、夜々通はんとせし程に、姫君一人御在(おはしま)す(原文は漢文)」という記述がある[7]。通説では、「安元2年(1176年)3月」より、頼朝が政子の元に通い始めて、やがて姫君(大姫)が生まれたと解釈される[8][9]が、「安元2年(1176年)3月」は頼朝が政子に通い始めた結果、大姫が生まれた時期を指すとする解釈もある[10]。なお、後者の解釈によれば、伊東祐親が頼朝と政子の交際を知ったことが、頼朝と娘・八重姫を引き離して、2人の間の子である千鶴丸を殺害した直接の原因であったとしている[11]。
- ^ 頼朝や頼家・実朝もほとんどは「先武衛」や「将軍家」など、当時の地位を反映した通称で記述される。
- ^ ただし高橋は言及していないが、昭和7年(1932年)にも「北條政子[33]」表記を採る書籍がある。
出典
- ^ 永原慶二監修、貴志正造訳注『新版 全譯吾妻鏡 第二巻自卷第八至第十六』、新人物往来社、358頁(建久十年己未二月大)
- ^ “安養院 - 鎌倉市観光協会 | 時を楽しむ、旅がある。~鎌倉観光公式ガイド~”. www.trip-kamakura.com. 2024年1月30日閲覧
- ^ 坂井孝一 2021, p. 42-44.
- ^ 坂井孝一 2021, p. 48-51.
- ^ 坂井孝一 2021, p. 50-51.
- ^ 保立道久 2015, p. 311・313(系図).
- ^ 坂井孝一 2021, p. 90-91.
- ^ 坂井孝一 2021, p. 90-95.
- ^ 呉座勇一 2021, p. 26-27.
- ^ 保立道久 2015, p. 309-310.
- ^ 保立道久 2015, p. 307-315.
- ^ 山本みなみ 2021, p. 83.
- ^ 石井進 1974.
- ^ 坂井孝一 2020.
- ^ 永井晋 2000, p. 135-159.
- ^ a b 野村育代 2000, p. 7.
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 1–4.
- ^ 吉海直人「北条政子」は本名ではなかった─大河ドラマの基礎知識─、2022年02月08日
- ^ 小谷野敦『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係ないのか』青土社、2011年、141-142頁
- ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、278頁
- ^ a b c d 高橋秀樹 2004, p. 2.
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 2–3.
- ^ 大藤修 2012, p. 83.
- ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、244、252、291-297頁
- ^ 田端泰子 2003, p. 197–199.
- ^ 田端泰子 2003, p. 196.
- ^ 五味文彦 2007, p. 28.
- ^ 山田孝雄 1932, p. 516.
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 3.
- ^ 山路禰吉 1912, p. 497.
- ^ 本多浅治郎 1913, p. 267.
- ^ a b 高橋秀樹 2004, p. 4.
- ^ 雄山閣編集局編 1932, p. 3.
- ^ 渡邊幾治郎 1940, p. 124.
- ^ 洞富雄『庶民家族の歴史像』校倉書房、1966年、183頁
- ^ 高橋(1966)15-16頁
- ^ 井戸田博史『氏と名と族称 その法史学的研究』法律文化社、2003年、105頁
- ^ 武光誠『名字と日本人 先祖からのメッセージ』文芸春秋、1998年、86頁
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 18.
[前の解説]
北条政子と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 北条政子のページへのリンク