今川義忠
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系譜
脚注
参考文献
- 家永遵嗣「北条早雲の素性をさぐる」、「初代 北条早雲」『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年。ISBN 4404033168。
- 小和田哲男『駿河今川一族』新人物往来社、1983年。ASIN B000J7HXUY。
- 家永遵嗣「伊勢宗瑞(北条早雲)の出自について」『成蹊大学短期大学部紀要』29号、1998年。/所収:黒田基樹 編『伊勢宗瑞』戒光祥出版〈中世関東武士の研究 第一〇巻〉、2013年。ISBN 978-4-86403-071-7。
- 黒田基樹「今川氏親の新研究」『今川氏親』戎光祥出版〈中世関東武士の研究 第二六巻〉、2019年4月。ISBN 978-4-86403-318-3。(新稿)
- 清水市史編さん委員会 編『清水市史』 第一巻、吉川弘文館、1976年1月15日。NDLJP:9537281。(要登録)
- 谷口雄太「戦国期における三河吉良氏の動向」『戦国史研究』66号、2013年。/所収:谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』吉川弘文館、2019年11月。
関連項目
注釈
- ^ 『今川記』では範政とされているが、範政は永享5年(1433年)に没しており、名代は龍王丸(義忠)と思われる[1]。
- ^ 大塚勲は『宗長日記』の記述から義忠の戦死を文明7年の誤りとする説を唱えているが[11]、黒田基樹は大塚の解釈誤りを指摘して文明8年で問題ないとしている。また、黒田は江戸時代には文明11年死去と記す文献もあったが、これは後継ぎである龍王丸が足利義政から義忠の後継者として安堵を受けた年を誤解したものである、と解説する[12]。
- ^ 飯尾氏が今川氏の譜代ではなく元々は吉良氏の家臣であったことは、『山科家礼記』応仁2年7月5日条に登場する「吉良殿内飯尾善四郎」という人名(「善四郎」は飯尾連龍まで飯尾氏歴代当主の通称として用いられた)から裏付けられる[16]。
出典
- ^ 小和田 1983, p. 124.
- ^ 小和田 1983, pp. 129–130.
- ^ a b 清水市史編さん委員会 1976, p. 362.
- ^ 小和田 1983, pp. 131–132.
- ^ 小和田 1983, p. 134.
- ^ 小和田 1983, p. 133.
- ^ 家永 2005, pp. 42–43.
- ^ 家永 2005, p. 43.
- ^ 小和田 1983, pp. 133–134.
- ^ 家永 2005, p. 45.
- ^ 大塚勲「今川義忠の討死と竜王丸の自立」『今川氏と駿河・遠江の中世』岩田書院、2008年。
- ^ 黒田 2019, pp. 11–12.
- ^ a b 家永 2013, pp. 235–236.
- ^ 黒田 2019, pp. 12.
- ^ 家永 2013, pp. 236–238.
- ^ 谷口 2019, p. 41.
- ^ 谷口 2019, pp. 40–48.
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