ロシア第一革命
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革命
ゲオルギー・ガポン神父が指導したゼネラル・ストライキの翌日の1905年1月22日(旧暦1月9日)、「血の日曜日」として知られるこの日、サンクトペテルブルクでは参加者11万人の大規模なデモ行進が行われた。当時、ツァーリがサンクトペテルブルクを離れていたことから、その与り知らぬ所で冬宮に軍隊が配置され、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した。死者の数についてはさまざまな推計があるが、一般には1,000人前後が死傷したと見られている。
この事件はロシアの多くの団体が抵抗運動を始めるきっかけとなったが、それぞれの団体ごとに異なった目的があり、同一の階級間でさえ統一された方向性はなかった。主な活動団体とその目的は、農民(経済問題)、労働者(経済問題と反工業化)、インテリゲンツィアと自由主義者(民権)、軍隊(差別と経済問題)、小規模な全国組織(政治問題と文化活動における自由)であった。
農村の騒乱
農民の経済はすさまじい状態だったが、統一した指導者もなく、各運動体はそれぞれの目標に向かっていた。騒乱は年間を通じて拡大し、初夏と秋に隆盛になり、11月に頂点に達した。小作人は小作料の低減を求め、作男は賃上げを、土地管理人は所有地拡大を求めた。土地の強奪(時に暴力や焼き打ちを伴う)や略奪、森林での違法な狩猟と伐採などが行われた。サマーラでは農民が自分たちの共和国を作り、政府軍に鎮圧されるまで違法な伐採と分配を行っていた。行動に現れる憎悪の程度は農民の状態と直接的に関連があり、グロドノとカウナス、ミンスク近郊といった幾分状況に恵まれた地域ではほとんど破壊活動がなかった一方、リヴォニヤとクールラントの無産大衆は襲撃と焼き打ちを行った。全体として、軍隊の投入が必要となった騒乱が3,228件、地主は計2,900万ルーブリの損害を被った。
ロシアの急進的な政党はこうした農村の騒乱に急速に浸透して行った。5月の全露農民連合に繋がる、農民の活動を組織・調整する協議会結成の動きが起こっていた。この協議会は地域代表からなり、社会革命党と緊密な関係があったが、現実的で首尾一貫した要求を打ち出せなかった。
1905年の事件後、農村の騒乱事件は1906年に再発し、1908年に終息した。政府が農民側に譲歩したことによって、農民による土地の再分配を政府が支持したと捉えられ、土地管理人や「農民でない」地主を追い出す襲撃が起きた。農民は全国的な土地再分配がすぐにでも行われると考え、既定のことのように捉えた。
ストライキ
労働者が抵抗運動に参加する主な手段はストライキであった。「血の日曜日事件」が起きるとすぐに、サンクトペテルブルクで大規模なストライキが起き、1月末までに40万人を越える労働者が参加した。このストはすぐにポーランドやフィンランド、バルト海地域の工業地帯に波及した。リーガでは1月13日(旧暦)にデモ参加者80人が殺され、数日後、ワルシャワでは100人を越えるスト参加者が路上で射殺された。ストライキは2月までにカフカスに、4月までにウラル地方以遠で起きるようになった。3月、学生がストライキに共鳴したため、高等教育機関は全て年内に強制的に閉鎖されることになった。10月8日(旧暦)の鉄道労働者のストライキはあっという間にサンクトペテルブルクとモスクワのゼネラル・ストライキに発展した。200を超える工場でストライキを組織する労働者協議会サンクトペテルブルクソビエト(大半が参加者がメンシェヴィキ)が、短期間ではあるが結成されることになった。10月13日(旧暦)までに200万人を超える労働者がストライキに参加したが、鉄道労働者はほとんどいなかった。
暗殺
警察の統計によると、1901年から1911年にかけて革命運動によって殺されたのは約1万7,000人。[1] うち、1905年から1907年の2年間で約9,000人となっており、1905年2月から1906年5月にかけて殺された人数の内訳は以下の通り。
- 総督、知事、市長 8人
- 副知事とグベルニヤ(訳注:当時の行政区分のひとつ)議員 5人
- 警察本部長官 21人
- 国家憲兵将校 8人
- 将軍 4人
- 将校 7人
- 様々な階級の警察官 846人
- 秘密警察(オフランカ)警察官 18人
- 神父 12人
- 公務員 85人
- 地主 51人
- 工場所有者 54人
- 銀行家と資産のある商人 29人
社会民主労働党、社会革命党、アナーキストの武装集団と「一匹狼のテロリスト」による暗殺が行われた。社会革命党の「戦闘組織」(Boevaia Organizatsiia)により、1905年以降有名な政治家が多く暗殺され、この中に内務大臣が二人(ドミトリー・シピャーギン(1902年)と後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年))がいる。
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