リンドン・ジョンソン 来歴

リンドン・ジョンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 20:30 UTC 版)

来歴

生い立ち

1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで誕生した。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティ高校を卒業した。

1926年には、南西テキサス教員養成大学(現・テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州南部・コトゥーラの貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師見習いを務めている。

政治家へ

テキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬したジョンソン(右)の支援に訪れたフランクリン・ルーズベルト(左)

ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父は、テキサス州議会で5期務めており、後に連邦下院議長となるテキサス州選出下院議員サム・レイバーン英語版とは親しい友人だった。以後サム・レイバーンはジョンソンの政治指南役として彼に影響を与え、大統領になった後まで続いた。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・クレバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはクレバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。

秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またルーズベルト政権の主要人物数人ともパイプを持ち、当時副大統領だったジョン・ナンス・ガーナーとは同じテキサス州出身で、その後相談役としてジョンソンを支えていくこととなった。

秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラーと出逢い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。これが後にレディ・バード・ジョンソンとして知られるようになるジョンソンの妻である。夫妻には、1944年に長女のリンダ・バードが、1947年には次女のルーシー・ベインズが生まれている。

1935年にはテキサス州青年局長に就任し、政府が若い人々のために教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。この活動によってジョンソンは自身の政治的地盤を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名だった。彼は2年間青年局長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。

1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策の推進を選挙公約に掲げて選挙活動を繰り広げ当選した。下院議員になるとフランクリン・ルーズベルトはこの若いテキサス人に関心を示し、新人議員にとって非常に重要な意味を持つ海軍軍事委員会の委員にジョンソンを指名した。また下院議員として、主に自身の選挙区に電気をもたらすことをはじめ地元発展のために奔走した。

1941年にジョンソンはテキサス州の現職上院議員の死去に伴い上院の補欠選挙に出馬する決意をして、民主党上院議員候補に名乗りを上げて現職テキサス州知事でラジオパーソナリティのW・リー “パピー” オダニエルと民主党候補指名を争った。当時のテキサス州は民主党の牙城で民主党での指名を得ることは即議員に当選すると言われた時代であったが、当時有名だった州知事を前にジョンソンは当初全く歯が立たないと予想された。しかし、力強い選挙活動を展開して、きわどい差まで追い込んだが結局ジョンソンは敗れた。

第二次世界大戦

海軍少佐の制服に身を包んだジョンソン下院議員(1942年)

上院補選の選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら招集に応じて戦地に赴き敵と戦うという公約を掲げていたが、程なくして1941年12月7日(アメリカ・ハワイ時間)朝、日本軍の真珠湾攻撃で、翌8日にアメリカは日本に宣戦布告し第二次世界大戦に参戦した。大戦中ジョンソンは海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかし戦後になって銀星章受章の背景には極めて政治的な目論見があったことが臆測されるようになった。

1940年6月20日、下院議員時代に初めて平時の徴兵を行うための法案が議会に提出された時、予備役海軍少佐だったジョンソンは自身の招集を免除する約束を取り付けた上でこの法案に同意した。ところが翌年アメリカが大戦に参戦すると、一転して海軍省次官ジェームズ・フォレスタルに自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船工廠の検査役となった。

アメリカ軍が各地で日本軍に対して劣勢な中、1942年春ごろになると、ジョンソンはルーズベルトに、今度はより戦闘地域に近い戦地に自らを配置にするよう求めた。情報が軍の指揮系統を経由する間に歪められることを予想したルーズベルトは、南西太平洋地域で信頼できる情報源を得たいと考えていた。そしてフォレスタルの提案により、ルーズベルトはジョンソンを南西太平洋の偵察隊に配置した。ジョンソンはオーストラリアメルボルンで司令長官ダグラス・マッカーサーと会い、第22爆撃隊に配属された。偵察目標はニューギニア島にある日本海軍のラエ飛行場だった。司令官は外部の偵察員などかえって足手まといだと感じていたが、ジョンソンはその必要性を強く主張した。

1942年6月9日、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアで勇気ある行動を見せた。南西太平洋地域の情報活動任務でジョンソンは戦闘に関する情報を直接得るために、ニューギニアのまだ日本が制空権を握っている空域で危険な任務を帯びた偵察を志願した。ジョンソンの搭乗するB-26マローダー爆撃機とともに偵察活動に出た部隊は日本軍の攻撃を受けたが、ジョンソンの搭乗機はその前にエンジントラブルで引き返しており、爆弾も投下せず、戦闘には参加していなかった[2]。マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に最高位から3番目に位置する銀星章を授与した。

帰国後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」、「士気は高くなかった」などと正直に委員会に報告している。しかしその活動内容は非難を浴びたため、ルーズベルトは軍務に就く議員を議会に戻すことを命じた。

上院議員

1948年の大統領選挙と同時にジョンソンは再び上院議員選挙に挑戦、このときは民主党候補の指名を受けて、共和党候補を破り当選した。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン(Landslide Lyndon)」と呼ばれた。上院では軍事委員会の委員に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。その後この委員会の委員長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果によりジョンソンは他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。やがて彼は「論争を最小限に抑えて案件を処理する能力に長けている」と言われ、立法の魔術師というあだ名がつけられた[3]

上院議員として数年の活動後にジョンソンはリーダーシップを発揮して、1953年には少数党院内総務に選出された。ジョンソンの最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となりジョンソンは多数党院内総務となった。そして「同僚議員を説得する力と他人を操作する技術」をフルに生かして本会議と委員会の運営を支配し多くの法案を成立させるために尽力した[4]

1960年大統領選挙

ジョンソンは上院院内総務としての実績により、1960年大統領選挙で民主党における有力な大統領候補とみなされることになった。しかしこの年3月のニューハンプシャー州の予備選から勝ち上がってきたマサチューセッツ州選出の上院議員、ジョン・F・ケネディに獲得した代議員数で差をつけられて、またジョンソン自身の立候補宣言が遅すぎたこともあって7月の民主党大会で彼は409票を得たが、その2倍近い806票を得たケネディが民主党大統領候補に選出された。そして民主党大会の最終日にケネディが副大統領候補に指名したのは対立候補であったジョンソンであった。

リベラルな北部出身のケネディがジョンソンを副大統領候補に指名したのは、南部テキサス州出身のジョンソンと組むことで、南部の保守票を獲得することにあった。これは当時も現在も正副大統領の組み合わせで南北のバランスを取ることは普通のことであった。しかし当時の副大統領は閑職とされており、政権内部でリーダーシップを取ることはなく、この時ジョンソンの政治指南役で同じテキサス州のサム・レイバーン下院議長は副大統領候補を受諾したジョンソンに失望したとされ、フランクリン・ルーズベルト大統領時代に副大統領を務めた同じくテキサス州出身のジョン・ナンス・ガーナーは「副大統領なんぞ、たんつぼほどの値打ちもない」とジョンソンに語っている[5][注釈 1]

同年11月、民主党のケネディ=ジョンソンは小差で共和党のニクソンロッジに勝利して、トルーマン大統領以来8年ぶりに民主党の大統領が誕生することとなった。

副大統領

NASAで演説を行うケネディ(壇上)、その横にジョンソン

1961年1月に大統領就任後のケネディは、人種差別問題に関心の深いジョンソン副大統領を大統領雇用機会均等委員会の委員長に任命した。そのほかにも副大統領としてジョンソンはいくつかの執務を無難にこなした。内政についてはもともとニューディーラーであったジョンソンの見識の深さはやがて大統領になってから発揮されたが、外交について見識を深めることはなかった。

ベトナム情勢の悪化が進む中でケネディ政権は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定、ケネディはジョンソンと国防長官ロバート・マクナマラ1961年にベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として早急な支援を訴え[7]、マクナマラも「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる数値が示している」と報告し[8]、ケネディの決定を支持した。

副大統領在任中はケネディ兄弟の高い人気の陰に隠れて典型的な「外交儀礼用の副大統領」に終始し、ワシントン政界では「ほとんど何でもない男」であった。形式的な存在に過ぎず政権内では孤独であった[4]。ジョンソンは政権と議会の板挟みになった上に政権側がジョンソンの頭越しに議会と取引をすることもあり、もはやジョンソンが上院に復帰しても院内総務時代の指導力を取り戻すことは困難となった。それどころか、議員時代の立場と政権の方針の相違から、上院議員への復帰能力すら怪しくなっていた。1963年10月31日の大統領記者会見で「来年の大統領選挙で、副大統領候補はジョンソンとお考えですか?」という記者の質問に対してケネディは「その通り、答えはイエスです」と答えている[9]が、翌日のある新聞には「ジョンソンの首がつながった」という露骨な表現まで現れた。まさに大統領の胸三寸で政治生命が左右される状況で、ジョンソンにとっては忍耐の日々であった。


注釈

  1. ^ ケネディがジョンソンを副大統領候補に指名した経緯については明らかになっていない。弟のロバートはジョンソン嫌いであったことは有名で、このことでケネディ暗殺後にジョンソン政権に残ることを潔しとしなかった。また指名しても受諾しないだろうとジョンが予測した上で礼儀的に対立候補に打診したら予想外に受け入れてしまったという説もあるが、父親のジョセフ・パトリック・ケネディがやはりテキサスを味方につけることでジョンソンを副大統領に強く推したというのが定説になっている[6]
  2. ^ ジョンソンには心臓発作の既往があったこともあり、ジョンソンは腕に軽傷を負い心臓発作を起こしたという誤報が生じていた。
  3. ^ ケネディ政権内でジョンソンは旧知のヒューズを連邦判事に推薦したがこの時は拒否され、やむなくジョンソンは別人を推薦したところ、下院議長の要請を受けた政権がジョンソンに相談なくヒューズを任命している。このようなことが重なってジョンソンの政治的信用は失墜していた。ヒューズはケネディ政権から任命された連邦判事のうち唯一の女性。
  4. ^ この時に機内からマサチューセッツ州ハイアニスポートに住むケネディ大統領の母ローズ・ケネディにお悔やみの電話をしている。
  5. ^ 聖書が無かったため、機内のケネディの机の上にあったミサ典書を使用した。
  6. ^ この作戦をネガティブ・キャンペーンとする向きもあるが、対立候補のゴールドウォーター自身の超保守的な言動が、米ソ対立がまだ続いていた時代のやや時代遅れの言説に、彼を忌避する動きが共和党自体の中にもあり、共和党の有力候補であったロムニー州知事は最後までゴールドウォーター支持を明確にせず、この選挙期間は共和党は分裂した状態になったことが彼の大敗の原因である。彼が獲得したのが人種差別の厳しい深南部の州だけであったことは、彼の政治姿勢の結果である。そして以後に共和党の組織の再編成と新しい組織作りに動いたのがリチャード・ニクソンであり、それが4年後の大統領当選につながっていった。
  7. ^ ひなぎくと少女」などのテレビ広告はこういった作戦の一環として流された。
  8. ^ 後にすべてアメリカ側が作ったウソであったとされたが、実際は2回あった攻撃の最初の1回目は事実で北ベトナムから攻撃であり、2回目の「攻撃」はアメリカ海軍側の作り話(と言うよりもレーダーゴーストの誤認を大げさに報告した)であった[要出典]
  9. ^ この時サイゴンにマクジョージ・バンディ大統領補佐官が情勢視察のために来ていた。バンディはこの攻撃で強硬論に凝り固まったと言われている。しかしジョージ・ボール国務次官はベトナムへの全面介入には批判的な立場であった[27]
  10. ^ 歴史資料では死者を出していないトンキン湾事件は大きく扱われる一方で、多くの死傷者を出したアメリカ軍基地爆破事件(ブレイク基地)は殆ど触れていないという意見もあるが[誰?]、この前年11月にビエンホア基地が攻撃されてアメリカ軍事顧問5人が死亡して、さらにクリスマスイブにサイゴンのホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺害される事態が生じている。ブレイク基地での7名死亡はその動きの一連の経過の一つに過ぎず、むしろその報復としての軍事行動が歯止めの効かない大量の兵士の投入につながったことで、トンキン湾決議は歴史的に重い課題である[要出典]
  11. ^ デイビッド・ハルバースタムによる、ベトナム戦争当時の政府閣僚らを取り上げたドキュメンタリー書籍のタイトル。ラスク国務長官、マクナマラ国防長官を始め、マクジョージ・バンディ、ウォルト・ロストウ、ジョージ・ボール、ウイリアム・バンディらを指す。
  12. ^ 1968年には1週間のベトナムにおける米兵の死者が約250人に達して、勝利の展望の無い長期戦になって大きな出血を強いられている事実が次第に明らかになって早期終結を望む声が大きくなった[31]
  13. ^ このテト攻勢について軍事的にはアメリカが圧倒して南ベトナム解放民族戦線側の死者が5万人にのぼり解放民族戦線の方が敗れているとの見方もあるが、個々の戦闘の勝敗よりもサイゴンの中枢を襲われアメリカ大使館を一時占拠されたこと自体が、それまでアメリカの一般国民が抱いていたベトナム戦争のイメージを覆し、急速に幻滅と悲観論が広がった。そして後にこのテト攻勢のアメリカ軍の死者が3,895人に上ったことを明らかにした。これは1968年の戦死者数1万2,000人の30%であり、犠牲が大きかったことが明確になった。そして政治的には大統領選挙の予備選挙が始まるタイミングで衝撃を与えて、結果アメリカの国内で地殻変動を起こしてベトナム戦争が大きなテーマになったことは政治的に極めて大きなものであった。
  14. ^ ウォルター・クロンカイトもそれまで「我々は戦争に勝利しつつあると思っていた」と語っている[33]
  15. ^ 3月25日にホワイトハウスで、クリフォードの提案で各長老や顧問を集めて会議を開いた。出席者はアチソン元国務長官、ディロン元財務長官、リッジウェイ将軍、テーラー将軍(元南ベトナム大使)、ロッジ元南ベトナム大使、ジョージ・ボール元国務次官、マクジョージ・バンディ大統領補佐官などで、この会議でベトナム政策の変更を求める意見が多かった。これがジョンソンに大きな影響を与え直後の3.31声明につながった。
  16. ^ 実際には20万人の増派要求に対して2万人の増派を行った。しかしこれはもういくら増派しても問題の解決にならないことを示しており、今後は南ベトナム軍により大きい戦争遂行の責任を持たすことを要求したものであった。これがベトナム戦争のベトナム化の始まりであった。またその背景として増派が財政を圧迫して1967年秋ごろから財政危機に見舞われ、それが為替相場でのドル危機を招き、この1968年3月第1週に金準備が3億ドル減少して、さらに第2週に再び3億ドル以上が流出することとなり(この問題は3年後のニクソン・ショックの原因であった)、またこのベトナム戦争の過大出費が国内の「偉大な社会」政策を直撃していて、もはや増税なしには増派できず、金融危機が発生する可能性も予想される事態にいたっていた。
  17. ^ ケネディ暗殺の首謀者はジョンソンであるとの仮説は映画や著書の中で論じられてはいるが、ジョンソンが本件で刑事裁判所で有罪判決を受けたことはなく、刑事裁判所に起訴されたこともなく、司法省に告訴されたこともなく、ケネディ大統領の遺族から民事裁判所に提訴されたこともない。本件に関して、ウォーターゲート事件におけるニクソン大統領や大統領の側近、また実行犯のように、連邦議会に証人喚問され、連邦議会議員からの尋問や証拠調べにより、ジョンソンが首謀者であるとの仮説が証明されたこともない。ジョンソン首謀者説は、刑事裁判所や民事裁判所や連邦議会のような公的な場所で、事実と認定されたことはなく、真偽を検証されたこともなく、ジョンソンの死後に発表された、私人による仮説にとどまっている。

出典

  1. ^ a b 砂田一郎『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』芦書房、1981年、pp.90 - 91
  2. ^ 加藤寛一郎『零戦の秘術』講談社、1991年、p.344
  3. ^ 藤本一美ほか『戦後アメリカ大統領事典』大空社、2009年p.155
  4. ^ a b 『戦後アメリカ大統領事典』p.156
  5. ^ 仲晃『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』弘文堂、1964年、p.84
  6. ^ ギャレス・ジェンキンズ(澤田澄江翻訳)『ジョン・F・ケネディ - フォトバイオグラフィ』原書房、2006年、p.134P
  7. ^ ヘンリー・キッシンジャー『外交』日本経済新聞社、1996年[要ページ番号]
  8. ^ アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』文藝春秋、2008年[要ページ番号]
  9. ^ 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』p.83
  10. ^ 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』pp.36 - 39
  11. ^ 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』pp.94 - 95
  12. ^ 藤本一美・濱賀祐子『米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~』専修大学出版局、2004年、p.102
  13. ^ 有賀正編著 『世界歴史大系~アメリカ史2~』 山川出版社、1993年、p.406
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  15. ^ ウォルター・クロンカイト(浅野輔翻訳)『クロンカイトの世界』TBSブリタニカ、1999年[要ページ番号]
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  17. ^ President Johnson's Special Message to the Congress: The American Promise”. LBJ PRESIDENTIAL LIBRARY. 2015年3月22日閲覧。
  18. ^ 「黒人暴動 米各地に波及 連邦軍、黒人街に入る」『朝日新聞』昭和42年7月26日朝刊、12版、1面
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  20. ^ 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.96
  21. ^ 『戦後アメリカ大統領事典』p.164
  22. ^ 土田宏『アメリカの50年 ケネディの夢は消えた?』彩流社、2015年、p.55
  23. ^ デイビッド・ルー『アメリカ 自由と変革の軌跡』日本経済新聞出版社、2009年、p.282
  24. ^ 佐々木卓也(編著)『戦後アメリカ外交史』有斐閣《有斐閣アルマ》、2009年、p.111
  25. ^ 『戦後アメリカ外交史』p.112
  26. ^ a b 秋元英一・菅英輝『アメリカ20世紀史』東京大学出版会、2003年、p.229
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  30. ^ a b 『アメリカ20世紀史』p.231
  31. ^ a b 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.113
  32. ^ a b c 『世界歴史大系~アメリカ史2~』p.416参照
  33. ^ a b 『アメリカ20世紀史』p.232
  34. ^ 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.115
  35. ^ a b 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.116
  36. ^ http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1968
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  39. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 ケイト・アンダーセン・ブラウワー著 光文社 2016年 p127
  40. ^ 『20世紀を伝えた男 クロンカイトの世界』 ウォルター・クロンカイトTBSブリタニカ 1999年 p294
  41. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p96、194-195、
  42. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p197-202
  43. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p349-353
  44. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p206-207
  45. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p307-308
  46. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p310-312
  47. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p323
  48. ^ ‘Hello, Lyndon!’ Joins Campaign At Democratic Parley Next Week - 1964年8月21日 The New York Times ARCHIVES
  49. ^ A Brief History of Campaign Songs - TIME
  50. ^ http://www.va.gov/health/newsfeatures/2015/february/list-of-presidents-who-were-veterans.asp






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