ミイラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 13:50 UTC 版)
概要
宗教的理由などによるミイラづくりは紀元前から行なわれ、古代エジプトの遺跡からはミイラ自体のほか、人間や動物をミイラにする大規模な作業場の遺構も出土している[3]。
数百年、数千年を経て、いまだ生前の面影を漂わせるミイラもある。ミイラから採取したDNAを使ったクローン誕生は絶滅した動物については研究対象とされている[4]が、ミイラの組織においてはタンパク質が水分を失って不可逆的に変質しているため、水分を戻すことにより生命活動を復活させることは、現代の科学では不可能である。
生成
死後、身体の腐敗が進行するよりも早く急激な乾燥(水分が人体組織の重量の50%以下になる)が起きると、細菌の活動が弱まる。脱水症状などの条件から死体の水分含有量が少ない場合にはミイラ化しやすい。自然発生ミイラが砂漠の砂の中からみつかることが多いが、これは急速な乾燥をもたらす自然条件のほかに、そこにできる死体が脱水症状を起こして餓死するなどで死亡したものであるため、死亡時の水分量がもとより少ないという条件が整っているからと考えられる。自然条件においては、成人一人がミイラ化するのに必要な期間は3か月と言われている。こういった自然のミイラは全身が完全なミイラとなっている例は少なく、身体の一部分のみがミイラ化して残っている場合が多い。
自然環境において全身ミイラが少ない理由の一つとして、死体の中で最初に腐敗が進行するのが内臓であることが挙げられる。自然状態においては内臓が体外に出ることがないため、人体の完全なミイラ化は起きにくい。ただし内臓が液化して体外に流出したり、野生動物に喰われたりしたあとに急速に乾燥するとミイラが形成されることがある。そのため、人為的にミイラを作る場合には、脳や内臓を摘出し、外部で火気などを用いて乾燥させ、あるいは薬品によって防腐処理を施した。その内臓は体内に戻すか、副葬品の壷の中などに納めるなどの手段が取られた。
古代エジプトではミイラ処置の手法は時代によって異なる点もあるが、分業制で専門の職人がいた。遺体の腐敗臭が酷い為、ミイラを処置する場所は町外れに置かれた。また身分階級によって工程数や値段には違いがあり、身分が高い王族やファラオは念入りに処置されたが、庶民などは安価で簡素な処置で済まされる事もあった。ミイラ処置の一例は以下の通り[5][6][7]。
- 遺体の洗浄。
- 鼻の穴から細長い棒を差し込み、脳をかき出す。
- 胃腸や肺、肝臓などの臓器を取り出す。
- 腹部に没薬等を詰める。
- 全身をナトロンで覆い、一定期間(40日から70日)放置し、乾燥させる。
- 化粧や整髪、装飾品などを着け外見を整え、防腐処理を行う。
- 護符などを挟み込みながら、樹脂を浸したリネンの包帯を巻きつける。
- 棺に納めて遺族に渡す。
注釈
出典
- ^ Niños momia, Sacrificados en Salta, National Geographic Channel(スペイン語)
- ^ ヨハン・ラインハルト|ナショジオピープル|番組紹介|ナショナル ジオグラフィックチャンネル
- ^ 「ミイラ作り、これが仕事場 エジプトで発掘、最大規模」『毎日新聞』朝刊2023年5月29日(国際面)2023年6月11日閲覧
- ^ K.L.キャンベル(カナダ・マニトバ大学) 、M.ホフライター(英ヨーク大学)「眠りから覚める古代DNA」『日経サイエンス』2013年4月号
- ^ 古代エジプトのミイラ作り、防腐剤の「レシピ」が明らかに=英研究
- ^ 「ミイラ」職人から盗掘者、土産物屋まで!ミイラで生計を立てた人々
- ^ 第16回 ミイラの発掘 クフ王のミイラを想像する
- ^ 木乃伊(ミイラ)の話 (お江戸今昔堂)
- ^ Online Etymology Dictionary
- ^ 『輟耕録』巻3・木乃伊
- ^ 李時珍 (中国語), 本草綱目/人部#木乃伊芳, ウィキソースより閲覧。
- ^ Thomas Hersey『The Thomsonian recorder』第2巻(Jarvis Pike & Co./1834年)380ページ
- ^ 粟屋剛、「徳山大学研究叢書 19」人体の利用と商品化 1章-4 医療関連の利用 Archived 2010年1月23日, at the Wayback Machine.
- ^ “死に至る病でさえ克服した「人類と薬」の世界史”. 東洋経済オンライン (2019年6月4日). 2021年9月17日閲覧。
- ^ a b c d フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。
- ^ 和田, 浩一郎 (日本語). 古代エジプトの埋葬習慣. 日本: ポプラ社
- ^ J.トールワルドの著書『外科の夜明け』ISBN 978-4-09-251009-8
- ^ 左側の聖職者は白いクロブークを被っており水色のマンティヤを着用しているため、府主教。右側の聖職者は、クロブークを被りエピタラヒリを着用している一方で、このような時に通例主教職が着用するマンティヤは着用していないため、掌院、典院、修道司祭のいずれかであると推測できる。
- ^ 加漆肉身像. コトバンクより。
- ^ 大谷光瑞と大谷探検隊・ミイラ発掘
- ^ 奥村武「当時のままの黒田綱政」 福岡市市長室広報課・編『ふくおか歴史散歩』 福岡市 1977年 P.119-120
- ^ a b c d e f g 『グラヒック』第1巻第18号、1909年9月15日、p14(同誌には2遺体の写真3点が掲載)
- ^ a b c 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』林泉社、1936-1940、p139
- ^ a b c d Abolfazl Aali, Aydin Abar, Nicole Boenke, Mark Pollard, Frank Rühli & Thomas Stöllner. 2012. "Ancient salt mining and salt men: the interdisciplinary Chehrabad Douzlakh project in north-western Iran." Antiquity Project Gallery 86(333): http://antiquity.ac.uk/projgall/aali333/
- ^ 江戸時代から伝わる匠の技術!? 河童のミイラ
- ^ “人魚ミイラ 霊長類と魚類の特徴 倉敷芸科大、うろこや針見つかる”. 山陽新聞 (2022年4月11日). 2022年4月11日閲覧。
- ^ 『万国怪物大博覧会』南方堂、1993年
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