フランツ・ベッケンバウアー 引退後経歴

フランツ・ベッケンバウアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 17:10 UTC 版)

引退後経歴

監督

西ドイツ代表監督時代のベッケンバウアー

1984年7月14日、西ドイツ代表監督に就任。同年6月に行われたUEFA欧州選手権1984ではグループリーグ敗退した責任を取り、監督のユップ・デアヴァルが辞任した事を受けてのものだった。ベッケンバウアー自身は当時、監督のライセンスを取得していないため「チームシェフ(統轄責任者)」という肩書きで代表チームを指揮する事となり(監督ライセンス所持者が正式に就任した場合は「監督(ブンデストレーナー)」となる)[10][34]、アシスタントコーチをホルスト・ケッペルが務めることになった。しかし当時の西ドイツ代表を取り巻く評価は概ね低く、4年前のワールドカップ・スペイン大会では結果的に準優勝に終わったが、グループリーグ初戦のアルジェリア(1-2で敗退)、同最終戦のオーストリア戦(1-0で勝利したものの、談合が行われたとの批判を受けた)で失態を演じて以来、国民からの信頼は地に落ちていた。「回復の見込みのない病人を治す魔術師のような役割を期待されての監督就任[34]」と見做されていた。

同年9月12日、デュッセルドルフで行われたアルゼンチンとの親善試合が監督として初采配となったが、この試合を1-2で落とす。翌1985年にかけて行われたワールドカップ・メキシコ大会予選では苦戦を続けながらも、かろうじて本大会出場を果たした。

1986年、ワールドカップ・メキシコ大会前の下馬評は低く、エースのカール=ハインツ・ルンメニゲは負傷を抱え、メディアでは代表合宿での選手間の対立が盛んに報じられた。かつての同僚であるパウル・ブライトナーからは「ベッケンバウアーは茨の道を進もうとしている」と辛らつな評価をされていた[35]が、ベッケンバウアーはベテランを中心とし[10]、芸術家タイプの選手を廃し労働者タイプの選手を多く重用[36]したことが功を奏し準優勝に導いた。ドイツのメディアは、この時の選手達の見せたプレーを「素朴なサッカーへの回帰」と呼んだ[36]

メキシコ大会後はそれまで代表を支えていたルンメニゲらが退き、世代交代が進んだ。中盤のローター・マテウス、左ウイングバックのアンドレアス・ブレーメらの中堅を軸にユルゲン・クリンスマントーマス・ヘスラーユルゲン・コーラーらが新たに加わった代表チームを率いて地元開催となった1988年UEFA欧州選手権1988ではベスト4。 1990年6月のワールドカップ・イタリア大会では前回大会の決勝で敗れたアルゼンチンを退け3度目の優勝に導き、選手と監督してワールドカップ制覇を経験することになった。なお選手と監督双方でワールドカップ制覇を経験したのはブラジルのマリオ・ザガロに次いで2人目となった。

同年8月、フランスオリンピック・マルセイユのスポーツディレクターに就任した[37]。契約金は300万マルク(約2億8000万円)。これはベッケンバウアー自身がアディダスとの長いつながりがあったことと、マルセイユの会長を当時務めていたベルナール・タピがアディダスの経営権を握っていた縁によるものだった。当初、ベッケンバウアーはタピの「マルセイユを世界一のクラブにする」計画に興味を持ち、西ドイツ代表時代にコーチを務めたホルガー・オジェックと共にチームに参加したが、就任から2週間後に監督のジェラール・ジリ英語版が辞任したことを受けて1990-91シーズン途中の同年9月に監督に就任した[37]。なおジリは1988年から監督を務めリーグ2連覇、1990-91シーズンも開幕から負けなしで首位に立っていた。ベッケンバウアーの初采配は第10節のASカンヌ戦となったが0-1で敗戦。サポーターからは非難のブーイングと前任のジリを求めるコールが鳴り響いた[37]

マルセイユの監督就任に関して、当初からメディアでは「個人の自由を尊重し主張するフランスに規律と厳格さを求めるドイツ式のやり方はあわない」「西ドイツを優勝に導いた人物には危険な賭けである」と評されていた[37]。またクラブの周囲では八百長疑惑にまつわる噂が広まっており、後に自著の中で「よく考えもせずに、いつのまにかチームに加わっていた」[38]と振り返るように、マルセイユでの仕事に対し情熱を失っていった。翌1991年1月にベルギー人レイモン・ゲタルスに監督の座を譲り、スポーツディレクターに復帰。シーズン終了後にマルセイユを退団した。

その後

1991年11月に古巣のバイエルン・ミュンヘンの副会長に就任。1994年には同クラブの会長に就任。一方で1993年12月28日から翌1994年6月30日までエーリッヒ・リベックの後任としてバイエルンの代理監督を務め、1993-94シーズンのブンデスリーガ優勝。1996年4月29日から6月30日までオットー・レーハーゲルの後任としてバイエルンの代理監督を務めUEFAカップ優勝に導いた。また2002年からは同クラブの監査委員会役員長も務めた。

1998年、ドイツサッカー連盟副会長に就任すると、地元ドイツへのワールドカップ(W杯と略)招致に成功。2000年ワールドカップ・ドイツ大会組織委員会委員長に就任した。ベッケンバウアーにとって、選手として3回、監督として2回、W杯組織委員会(開催国の組織委員会)委員長として1回の計6度目のワールドカップであった。ドイツ国内的にはスタジアムを一新し、新時代のサッカーに備えることが第一目的だった[10]。対外的には、2006年ドイツW杯を笑顔にあふれる大会にしたいとの思いから、W杯史上初めて公式マークに「笑顔」を使った(06の文字が笑顔になっている)。W杯ごとに高騰し続けていた入場券を買いやすい値段にしたほか、ホテルも、値上がりを抑えるよう最大限の努力をした。鉄道会社からの全面的な支援を受け、観戦客が安くドイツ中を旅行できるようにした[10]。献身的な働きにより、2006年ドイツワールドカップ本大会は成功を収めた。

2005年3月、国際サッカー連盟(FIFA)会長選挙ならびに欧州サッカー連盟(UEFA)会長選挙に出馬する噂が報じられた。FIFA会長選挙については現職のジョセフ・ブラッターが適任であるとして早々に噂を否定したが、UEFA会長選挙については現職のレナート・ヨハンソンが再選を狙わないことを条件に関心があることを示唆した[39]。ベッケンバウアーは最終的に立候補を辞退した。

2009年11月27日、バイエルン・ミュンヘンの会長職を退任し、名誉会長に就任した[40]。後任には同クラブのスポーツ・ディレクターを務めていたウリ・ヘーネスが就任した[40]。また、同クラブの代表取締役を務めるカール=ハインツ・ルンメニゲから同クラブの名誉主将に任命することが発表された。

2010年3月、「これからは家族と一緒の時間を増やしたい」との理由からFIFA理事を退任した[41]

2015年、2006年ワールドカップ・ドイツ大会招致運動で多額の贈賄工作が行われたことが露見すると、ベッケンバウアー本人とその代理人が深く関わっていた疑惑が浮上した。横領、背任、マネーロンダリングの疑いにより、スイス司法当局によって自宅の家宅捜索も行われ起訴された。

2024年1月7日、ザルツブルグで家族に看取られ、死去[42][43]。78歳没。追悼式が同月19日、長く在籍した強豪クラブ、バイエルン・ミュンヘンの競技場で行われた[44]


注釈

  1. ^ 1974年 西ドイツ大会優勝時
  2. ^ 1974年に西ドイツ代表とバイエルン・ミュンヘンのキャプテンとしてワールドカップ優勝、UEFAチャンピオンズカップ優勝という偉業を成し遂げたにもかかわらず、同年代のライバルであるヨハン・クライフバロンドールに選出された時に漏らしたコメント。
  3. ^ 全訳ではなく抄訳となっている。

出典

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