シトカの戦い シトカの戦いの概要

シトカの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/10 13:30 UTC 版)

シトカの戦い
Battle of Sitka
ロシアによるアメリカ植民地化中
1804年10月
場所アラスカ州シトカ市
結果 ロシアの決定的勝利
衝突した勢力
ロシア帝国 トリンギット族キクスアディ派
指揮官
アレクサンドル・バラノフ カトリアン酋長
戦力
ロシア兵150名
アレウト族400名
750名–800名 (推定)
被害者数
戦死12名、負傷者多数 不明

両者の間の敵愾心は大方は消えていったが、先住民族からの散発的なロシア開拓地に対する攻撃が1858年頃まで続いた。戦場跡はシトカ国定歴史公園として保存されてきた。2004年9月、戦闘から200周年を記念し、ロシア側指導者バラノフの直系子孫が出席して、キクスアディ戦士の子孫と伝統的な「泣きの儀式」を行って、亡くなった先祖を公式に弔った。


背景

先住民族トリンギット族のキクスアディ(フロッグ/レイブン一族)派は、1万年にも亘ってシトカ島(今日のバラノフ島)を含むアラスカ・ペンハンドルの部分を支配してきた。ロシア・アメリカン会社の前身であるシェリコフ=ゴリコフ会社の支配人アレクサンドル・バラノフは、新しいラッコの狩り場を求めて1795年に「エカテリーナ」号に乗ってこの島を初めて訪れた。バラノフは島で交易を行う際に「侵入者」を防ぐため、土地に入る権利を得る代償をトリンギット族に少額ながら支払った。

1799年5月25日、バラノフとロシア・アメリカン会社の雇員100名(先住民の妻も伴っていた)の移民集団がロシア帝国海軍のカッター「オルガ」とスループ・オブ・ウォー「コンスタンチン」に乗船してシトカ湾に到着した。これには550艘のバイダルカ船の船隊が付いており、600名ないし1,000名のアレウト族護衛を載せていた。この一団は先住民族との摩擦を避けるためにトリンギット族の造ったノーウ・トライン(大きな砦)のある戦略的に重要な丘の横は通過し、トリンギット族集落の北7マイル (11 km)の2番目に良いと思った地点に上陸した。カトリアンスキー湾のロシア人開拓地、セント・ミカエル砦は、今日では「スターリー・ギャバン」湾すなわち「古い港」として知られている。その基地には、大きな倉庫、鍛冶屋、牛小屋、兵舎、防御柵、監視小屋、浴場、狩人用宿舎およびバラノフの住居が備えられた。

「コロシ」(トリンギット族をロシア人はこう呼んだ)は当初は新参者を歓迎したが、直ぐに敵対心が成長していった。キクスアディ派はロシア交易業者が先住民の女性を妻にする習慣に反発しており、「シトカ」の者を部外者の「カルガ」すなわち奴隷と見ていた他のトリンギット族から嘲られていた。おそらくこの種族はアレウト族のラッコなどを狩る技能が優れていることを羨んでもいた。キクスアディ派はロシア人が居続けることはその皇帝への忠誠を求めているということであり、それ故に島の資源について2つの集団間の競争が激化して奪い合いになる労働力の提供を期待されていることを認識するようになった。

1799年の冬、トリンギット族による基地の攻撃は何度か失敗し、植民地経営は繁栄していた。バラノフは1800年に急用でロシア領アメリカの当時の首都コディアックに戻ることになった。ワシリー・G・メドベドニコフが指揮者となり、22名のロシア人と55名のアレウト族が基地に残ることになった。1802年春、セント・ミカエル砦の住人は29名のロシア人、3名のイギリス人脱走兵、200名のアレウト族および数名のコディアックの女性となった。ハドソン湾会社の後援でイギリス人が北方アングーンのトリンギット族と1801年に会合を持ち、毛皮の排他的交易権と引き替えに武器弾薬を供給しているとの噂が立った。

1802年6月20日、カースダ・ヘーン(インディアン川)と近くのクラブ・アップル島のトリンギット族戦士の一団が、「悪魔の化粧」をし、木彫りの動物仮面を被ってロシアの基地を攻撃した。先住民族は槍や当時として最新式の火器で武装していた。火器については、イギリスフランススペインおよびアメリカの船がインサイド・パッセージをしばしば訪れ売り渡していた。シュコールイェール酋長に率いられた攻撃部隊は20名のロシア人と130名近いアレウト族の男性を皆殺しした。兵舎や倉庫を略奪して火を付け、建造中の船を破壊し、残った女子供を奴隷にした。

数名のロシア人とアレウト族が狩りのために基地を離れており、また森に逃げ込んだ者もいて、湾内に停泊していた2隻の外国船に辿り着いて攻撃のことを知らせた。簡単な交渉によって、トリンギット族はボストン船籍のアメリカ船「アラート」の指揮官に生き残った者の引き渡しに合意した。やはり近くに停泊していたイギリス船「ユニコーン」のジェイムズ・バーバー船長は、シュコールイェール酋長以下数名の戦士を船上に誘い、ブリッグ船内に拘留して、結果的に残っていた1名のロシア人と18名のアレウト族と交換した(襲撃で奪った4,000枚のラッコ生皮も取った)。

「ユニコーン」はコディアックに向かい、6月24日に生き残った者を届けるとともにバラノフに襲撃について知らせた。バーバーは開拓者を引き渡すことと引き替えに1万ルーブルを絞り取った(それでも元々の要求の20%に過ぎなかった)。

ロシアの反撃

キクスアディの勝利に続いて、トリンギット族のシャーマン、ストーノークウはロシアが必ず軍隊を連れて戻って来ると確信しており、種族の者達に大砲の砲火にも耐えられるよう新しい防御を施すと共に、十分な水の確保も行わせた。強い反対が有ったにも拘わらず、シャーマンの意志が通り、キクスアディは戦争の準備を整えた。シトカから同盟種族に支援を要請する伝令が送られたが反応は無かった。自分達だけでロシア艦隊に対抗するしかなかった。

トリンギット族は、シスキノーウ砦(ヤング・サプリングス砦)を建設した。砦の大きさは概略で縦240フィート (73 m)横165フィート (50 m)あり、湾に向かって長く拡がる小石浜を利点にするために、インディアン川河口に近い水際高く造られた。この場合浅瀬に邪魔されてロシア艦が射程内に近づけないと思われた。14の建物とそれを取り囲む厚い木柵壁を造るためにおよそ1,000本のトウヒ材が使われた。キクスアディの作戦は単純なものだった。ノーウ・トライン砦でロシア軍の強さと意志を推し量り、次に安全と考えられる新しい砦に戦略的な撤退を行うというものだった。

バラノフは、1804年9月遅くにシトカ湾に戻ってきた。乗艦はスループ・オブ・ウォー「ネバ」で、長さ200フィート (61 m)、3本マストで排水量は約350米トン(360メトリックトン)であった。「ネバ」は最近就役したばかりの最新技術を導入した戦艦でありイギリスで設計・建艦され(「テムズ」と命名されていた)、搭載大砲は14門、50名の訓練された乗組員が操船していた。ロシアでは初めて世界を周航できる艦でもあった。船長はユーリ・ヒョードロビッチ・リシャンスキー海軍少佐であった。他に「エルマーク」と2隻の武装小型帆船があり、150名のプロミシュレニクス(毛皮交易業者)が乗っていた。また250隻のバイダルカ船に400ないし500名のアレウト族が乗って随いてきていた。[1]

この戦いではロシアの方に開始時点から運がついていた。9月29日、ロシアは冬の集落の岸に行った。リシャンスキーは、この地をバラノフ知事が生まれた地域の最大都市に因んで、「ノボ・アルハンゲリスカヤ・ミハイロフスカヤ」(ニューアークエンジェル・セイントマイケル)と名付けた。[2]バラノフは直ぐにトリンギット族の集落に使節を送りノーウ・トラインでの交渉を申し出たが、すべて拒絶された。トリンギット族は単にロシア人を長く引き留めておき、その間に冬の集落を棄てて、敵に気付かれないうちに新しい砦を占領しておこうという考えだった。

しかし、キクスアディが「シャーセイイ・アン」(ジェイムズタウン湾)近くの島に貯蔵していた火薬を取りに少数の武装部隊を派遣した時、闇に紛れて行くのではなく白昼堂々と戻ろうとしたこの集団は、ロシア軍に見付けられて短時間の戦闘に突入した。トリンギット族が火薬を運んでいたカヌーに弾が当たり、積荷に火が付いて爆発した。硝煙が晴れると、トリンギット族の各家を代表する上流階級の若者(すべて一族の将来の指導者)、尊敬を集めていた年長者で構成されていた部隊が掻き消えていた。バラノフの使者がトリンギット族に送られ、ロシア艦は間もなく新しい砦に砲撃を開始すると伝えさせた。[3]

1日目

10月1日頃、「ネバ」はインディアン川河口近くの浅瀬に向かった。バラノフが率いるロシア上陸部隊は400名のアレウト族ととみに軽装歩兵のような戦列を組み、トリンギット族の砦を襲ったが銃による連続射撃に遭った。アレウト族は恐慌に陥って戦列を乱し、バイダルカの待つ海岸へ撤退した。

キクスアディの戦士は、新しい戦闘酋長「カリヤーン」(カトリアン)に率いられており、ワタリガラスの仮面を被り鍛冶屋の金槌で武装しシスキノーウ砦から飛び出して、接近戦を仕掛けてきた。近くの林の中から別のトリンギット族部隊が出てきて挟み撃ちにした。バラノフは重傷を負い、ロシア軍は水際まで退いた。この時に「ネバ」が撤退を支援するために砲撃を開始した。攻撃隊のうち12名が戦死し多数が負傷した。ロシア軍は海岸に小さな大砲を何門か残していくしかなかった。[3]

その夜、トリンギット族はロシアの攻撃を撃退したことで喜びに沸いた。

2日目

バラノフが傷を負って指揮を執れなくなったので、リシャンスキーが代わりに指揮を執ることになり、艦からトリンギット族基地に向けて艦砲射撃の開始を命じた。最初の砲弾は距離を測るものであり、最適な砲撃条件を決めようとした。ロシア軍は砦の防柵を破れないことが分かると、午後早くに砲撃を止め休戦の旗を持った使者を上陸させた。

防柵は木製で厚く強固なので、我々の砲撃では1ケーブル長 (219 m)の距離からでも貫通できない。—「ネバ」船長ユーリ・ヒョードロビッチ・リシャンスキー少佐の記録から。

キクスアディの者達を喜ばせたことに、伝令の要求は降伏であり、ニベもなく拒絶した。トリンギット族はロシア軍こそ降伏すべきと返事を伝えさせたがこれも拒否された。ロシアの砲撃が再開され日没まで続いた。夜になって、キクスアディはその事態を検討する会議を開いた。彼らは全て、ロシア軍が前日に多くの損失を被ったために、新たな地上戦は掛けて来ないと信じた。トリンギット族の目標はできるだけ長引かせて、北方の同族が到着して増援してくれることであったが、弾薬の量が限られていたために包囲戦に耐えられるのも限界があることと、そのために究極的な勝利の見込が薄いことが問題だった。[3]トリンギット族は戦術の変更が望ましいという結論になった。戦場で敗北する屈辱を味わうよりも、全員で周りの森の中に隠れてしまい(ロシア軍は森の中では戦ってこないと感じていた)島の北方に新たな集落を作り上げてしまうという戦略を作った。

3日目

日の出とともに、「ネバ」とその護衛艇がトリンギット族の砦への砲撃を再開した。キクスアディは休戦の使者を送って、捕虜の交換、協議の継続および降伏の可能性すら仄めかした。ロシア軍が知らないうちに、一族の老人と子供達は既に「ガヤー・ヘーン」(オールド・シトカ)への移動を始めていた。夜になって、族長達が再び集まり、島を横切る移動について話し合った。子供のいる母親は翌朝出発することにした。[3]

4日目

軍艦からの砲撃は夜明けとともに始まったが、キクスアディに対してロシア軍が休戦の申し出を行うために定期的に休止された。申し出は拒絶された。その午後、トリンギット族からの反応は、戦争に飽きてきたからロシアの要求に従って翌日シスキノーウ砦を明け渡すというものだった。日が沈むと、トリンギット族は新しい砦で最後の会合を開いた。年老いた者は、恐ろしい敵に対してキクスアディの土地を守り抜いた一族の者達を褒め称えた。一族は集まって最後の歌を歌い、最後は騒々しい太鼓の連打ともの悲しい叫び声で終わった。ロシア軍はこれを降伏の合図だと解釈した。[3]

トリンギット族は闇に紛れて見とがめられることもなく脱出した。


  1. ^ a b Postnikov
  2. ^ Nordlander, p. 8
  3. ^ a b c d e Hope


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