ガストン (オルレアン公) ガストン (オルレアン公)の概要

ガストン (オルレアン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 06:25 UTC 版)

ガストン・ドルレアン
Gaston d'Orléans
オルレアン公
在位 1626年 - 1660年

出生 (1608-04-25) 1608年4月25日
フランス王国フォンテーヌブロー宮殿
死去 (1660-02-02) 1660年2月2日(51歳没)
フランス王国ブロワ
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者 マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ
  マルグリット・ド・ロレーヌ
子女 一覧参照
家名 ブルボン家
父親 フランス王アンリ4世
母親 マリー・ド・メディシス
サイン
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生涯

フランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの三男として、フォンテーヌブローで生まれた。兄にルイ13世ムッシュ・ドルレアン(夭折)、姉にスペインフェリペ4世エリザベート(イサベル)、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世クリスティーヌ(クリスティーナ)、妹にイングランドチャールズ1世アンリエット(ヘンリエッタ)がいる。

1611年にムッシュ・ドルレアンが死亡してから、1638年にルイ13世の長子として後のルイ14世が生まれるまでの間は、フランスの推定王位継承者であった。

1608年にアンジュー公に叙され、1626年にオルレアン公、ブロワ伯シャルトル伯となった。1628年、当時ユグノーの牙城であったラ・ロシェル包囲に軍を率いて参加。また、母マリーとリシュリュー枢機卿の政府に楯突き、ラングドックで王軍に完敗した後フランドルに逃亡した。やがて兄と和解して帰国するが、1635年にリシュリューに対して陰謀を企み国外へ逃げ、再度政府に服従させられた。

服従後もすぐに同じ陰謀を繰り返し、1642年に兄の寵臣サン=マール侯を操り、リシュリュー暗殺を画策したが失敗した。翌1643年に兄が亡くなると王国の陸軍大将となり、フランス北部でスペイン軍と戦った。1646年にはアランソン公になった。フロンドの乱(1648年 - 1653年)に際して、甥ルイ14世の重臣マザラン枢機卿に睨まれ、1652年に私領ブロワに蟄居させられ、そこで亡くなった。

子女

オルレアン公爵夫人マルグリット

1626年8月、ナントブルボン家支流のモンパンシエ公アンリ・ド・ブルボンの相続人マリーと結婚、1女をもうけたが、マリーは翌年に死去した。

1632年1月、ナンシーマルグリット・ド・ロレーヌロレーヌ公フランソワ2世の娘、シャルル4世の妹)と結婚、1男4女をもうけた。

先代
アンリ4世の次男
オルレアン公
1626年 - 1660年
次代
フィリップ1世



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