オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン 生涯

オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 22:29 UTC 版)

生涯

ブルターニュ地方サン=ブリユーにて大貴族の家系に生まれる。父ジョゼフ=トゥサン侯爵と母マリ=フランソワーズ(旧姓ル・ネヴー・ド・カルフォール)はいずれも裕福でなく、母方のおばのド・ケリヌー夫人から仕送りを受けて暮らしていた。父は、マルタ騎士団の失われた財宝(フランス革命中にカンタン近郊に埋められたと伝えられる)を発見して家門を再建するという妄念に取りつかれており、宝捜しのために莫大な金を費やして土地を買い漁り、掘り返し、何ら価値あるものを見つけられぬまま大損を出して土地を売り渡すということを繰り返していた。

リラダン少年は問題児であり、学校を6回以上にわたって転校したが、子供の頃から詩作と作曲に才能を示していたため、家族からは芸術天才と信じられていた。ブルターニュ時代には恋人という出来事にも遭遇した。この出来事は、彼の文学的想像力に多大な影響を残すこととなった。

リラダンは1850年代後半からたびたびパリを訪れ、この都で芸術の虜となった。1860年にはおばの遺産が転がり込んだため、生涯パリで暮らして行けるだけの財産が手に入った。そのころ彼は既に機智あふれる酔談によって数々の文学サークルで有名人となっていた。ボヘミアン生活を送るようになった彼は、有名なカフェLa Brasserie des Martyrsで崇敬するボードレールに出会い、自ら訳もしたポーの作品を読むように奨められた。こうしてボードレールとポーはリラダンの文学に最も大きな影響を及ぼすに至った。しかし彼の最初の著書Premières Poésies(処女詩集,1859年、自費出版)は韻文であり、内輪以外ではほとんど反響を呼ばなかった。このころ彼はルイーズ・デョネと同棲し始めたが、ルイーズは名だたる淫婦だった。このため、一門の名声に傷がつくことを恐れたリラダン一族によって彼はソレーム修道院に入れられ、頭を冷やさなければならなかった。彼は信仰において甚だしく正道を踏み外していたが、それでも終生熱烈なカトリック信徒でありつづけた。

1864年、とうとうルイーズとの関係が破局を迎えた。しかし、一門の家格にふさわしい花嫁を得ようというリラダンの努力はことごとく徒労に終わった。1867年、彼はテオフィル・ゴーティエに向かって娘のエステルを嫁にくれるよう掻き口説いたが、ゴーティエは若い時期の経験からボヘミアンの世界にうんざりしていたため、生活力のない芸術家に娘をくれてやる気などさらさらなく、リラダンの求めをはねつけた。リラダン家の側でもこの結婚には大反対だった。資産ある英国女性アンナ・エア・パウエルとの結婚話も、同様にお流れとなった。とうとうリラダンはベルギーの御者の未亡人でマリ・ダンティーヌという無教養な女性と一緒に暮らし始めた。1881年、マリは彼の息子ヴィクトール(愛称は「トトール」)を出産した。

1869年、崇敬するリヒャルト・ワーグナートリープシェンに訪問した。自作の戯曲La Révolteの原稿を朗読したリラダンは、ワーグナーから「本物の詩人だ」と讃えられた。翌年もワーグナーを訪れたが、この時は普仏戦争勃発のために中断を余儀なくされた。(このときリラダンは国民衛兵の指揮官として従軍している。)最初のうち、彼はコミューンの愛国精神に感動し、マリユス(Marius)という変名でTribun du peupleに提灯記事を書いたものの、ほどなく革命軍の暴力沙汰に嫌気がさしてしまった。

1871年に悲劇が訪れた。母方のおばのド・ケリヌー夫人が亡くなり、それによって生計の途を失ったのだ。リラダンは数多の文学サークルに崇拝者(中でも最重要人物は親友のマラルメだった)を持っていたが、同時代の文壇では彼の小説作品はあまりに風変わりで大衆受けしない代物だったし、興行界からも彼の戯曲は成功の見込みが薄いと見なされていた。リラダンは家族を養うために半端仕事を始めざるを得なかった。ボクシングのコーチをしたこともあったし、葬儀場で働いたこともあった。香具師の使い走りをしたこともあった。がぎっしり詰まった檻の中で自作のを朗読して見物人から金を取ろうと考えたこともあったが、やがてもっといい考えを思いついた。彼の友人レオン・ブロワによると、リラダンは代表作『未来のイヴ』(L'Ève future)の大半を、剥き出しの床に寝そべって執筆したという。なぜなら、強制執行官が家具を全部持って行ってしまったからである。こうした彼の貧困は、貴族的な誇りをかきたてるばかりだった。1875年には、祖先の一人であるマレシャル・ジャン・ド・ヴィリエ・ド・リラダンを侮辱した廉で、或る劇作家を訴えたこともある。1881年、彼はレジティミストの政党から議会選に立候補したが落選した。

1880年代になると、リラダンの運勢はやや変わり始めた。文学的に認められ出したのだ。しかし金がないのは相変わらずだった。彼の『残酷物語』(Contes cruels)がカルマン=レヴィ出版社から刊行されたものの、印税は雀の涙だった。しかしながら、この作品に注目したユイスマンスは『さかしま』(À rebours)の中でリラダンを褒め称え、ステファヌ・マラルメは激賞の書簡を出した。しかし時既に遅く、リラダンは胃癌に冒されていた。死の床で彼はとうとうマリ・ダンティーヌを入籍した。こうして最愛の息子「トトール」はようやく私生児の汚名から逃れることが出来たのである。


注釈

  1. ^ 『クレール・ルノワール』は1867年10月から全8回にわたって週刊誌『 Revue des lettres et des arts 』に連載された怪奇小説だが連載当時は書籍化されなかった。やがてリラダンの知名度の向上に伴い“隠れた名作”として脚光を浴びたため、他の短篇作品と併せて初出から20年ぶりに出版されることになったという経緯がある。[3]

出典

  1. ^ a b “Auguste, comte de Villiers de L'Isle-Adam | French author”. Britannica. https://www.britannica.com/biography/Auguste-comte-de-Villiers-de-LIsle-Adam 2021年10月7日閲覧。 
  2. ^ en:Optography#Optography in fiction
  3. ^ 木元豊「ヴィリエ・ド・リラダンにおける反レアリスムと転説法 : 反レアリスム小説としての「クレール・ルノワール」」『武蔵大学人文学会雑誌』第46巻第1号、武蔵大学人文学会、2014年10月、NAID 120005568899 






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