アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ 来歴

アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 09:40 UTC 版)

来歴

幼少期から総合デビューまで

1976年ヴィトリア・ダ・コンキスタで農場を営む家庭に生まれる。4歳から柔道を始め、10代半ば頃にはブラジルのボクシングオリンピックコーチのルイス・カルロス・ドレアからボクシングを学んでいた[2]。11歳の頃[3]、トラックの下敷きになるという事故で両肺が潰れ、肋骨1本と肝臓の一部を失う大怪我を負い、丸4日間生死の境を彷徨う。当時の医者には2度と歩けなくなるとまで宣告されたが、懸命のリハビリによって回復した。背中の右肩甲骨下に大きく凹んだ傷跡がその事故の名残りである。

1993年、アメリカで開催されたUFCでのホイス・グレイシーの活躍に憧れ、17歳の時ヒカルド・デラヒーバの弟子ギリェルメ・アサッドのもとでブラジリアン柔術を始め、その後はデラヒーバに直接師事した。

1999年1月、パンアメリカン柔術選手権に出場し、茶帯ペサディシモ(+97kg)級で優勝、またアブソルート(無差別)級では決勝でジヴァニウド・サンターナを下し2冠を達成し、22歳でデラヒーバからブラジリアン柔術黒帯を授与された。

その後アメリカに移住し、パンアメリカン選手権の活躍により総合格闘技団の体WEFにスカウトされ[3]、1999年6月12日、WEF 5のデビッド・ドッド戦でプロ総合格闘技デビュー。

1999年7月には世界柔術選手権に出場し、黒帯無差別級でベスト4に進出するも、準決勝でホベルト・"ホレッタ"・マガリャエスに敗れている。また、この年に柔道の黒帯も取得している[4]

リングス

1999年10月28日、リングスで開催された「KING of KINGS 1999トーナメント」出場のために初来日。KOKトーナメントの1回戦でヴァレンタイン・オーフレイムにV1アームロック、2回戦でコーチキン・ユーリに腕ひしぎ十字固めで勝利し、準決勝へ進出した。

2000年1月15日、ジョージア州のロームフォーラム・シビックセンターで行われたWEF 8のWEFヘビー級王座決定戦で、ジェレミー・ホーンと対戦し、判定勝ちを収め王座獲得に成功した[5]

2000年2月26日、リングスのKING of KINGS 1999トーナメントの準々決勝でアンドレイ・コピィロフに判定で勝利するも、準決勝のダン・ヘンダーソンとの対戦では、延長ラウンドで数度のテイクダウンを奪い、かつマウントポジションを何度も取る等、終始優勢に試合を運んだにもかかわらず、審議委員判定によって敗れた[3]。試合後、ノゲイラの部屋にヘンダーソンからビールが1ダース届けられた[3]

2000年3月、第3回アブダビコンバット99kg超級に出場。1回戦でショーン・アルバレスにポイント勝ちするものの、2回戦でリコ・ロドリゲス膝十字固めで敗退した。

KOKトーナメント 2000 優勝

2000年10月9日、「RINGS KING OF KINGS 2000トーナメント」に出場し、1回戦でラバザノフ・アフメッド、2回戦で田村潔司にいずれも腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収め準々決勝に進出した。

2001年2月24日、RINGS KING OF KINGS 2000トーナメントの準々決勝でヴォルク・ハンに判定、準決勝で金原弘光にチョークスリーパー、決勝でヴァレンタイン・オーフレイムに肩固めで勝利し、優勝を果たした。

2001年にはまたカーウソン・グレイシー柔術アカデミーの分裂に際してマリオ・スペーヒームリーロ・ブスタマンチらと共にブラジリアン・トップチームとして独立した[6]

PRIDE

2001年7月29日、PRIDE初出場となったPRIDE.15ゲーリー・グッドリッジ三角絞めで一本勝ちを収めた。

2001年9月24日、PRIDE.16にてPRIDE2戦目で前年のPRIDEグランプリの覇者、マーク・コールマンと対戦。三角絞めでコールマンが立ち上がったのに合わせ腕ひしぎ三角固めに移行し、タップアウト勝利を収めた。

PRIDEヘビー級王座獲得

2001年11月3日、PRIDE.17では初代PRIDEヘビー級王座決定戦でヒース・ヒーリングと対戦し、判定勝ちを収め王座獲得に成功した。

2002年2月24日、PRIDE.19エンセン井上の引退試合の相手を務める。試合はガードからアームロックを極めたが、エンセンがタップしないため三角絞めに切り替え、最後は絞め落とし一本勝ち[7]

2002年8月8日、UFO LEGENDに出場し菊田早苗と対戦、寝技の攻防で一本は奪えなかったものの、スタンドの打撃で攻勢に立ち、最後は右ストレートで失神KO勝ち。

サップ戦

2002年8月28日、Dynamite!ボブ・サップと対戦。実に50kg以上にも及ぶ体重差とサップのパワーに苦しめられるが、腕ひしぎ十字固めにより逆転一本勝利を収めた。

2002年11月24日、PRIDE.23セーム・シュルト戦ではタックルを切られるなどてこずる場面もあったが、最後はマウントからの三角絞めで勝利した。

2002年12月23日、PRIDE.23から1か月後のPRIDE.24にも出場し、リングス時代に敗北を喫したダン・ヘンダーソンと再戦し、オモプラッタで主導権を握り、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

ヒョードル第1戦

2003年3月16日、PRIDE.25で行われたPRIDEヘビー級タイトルマッチにてエメリヤーエンコ・ヒョードルとの初防衛戦に挑んだが、ノゲイラの寝技を研究し尽くしたヒョードルの戦略と強烈なパウンドの前に圧倒され、判定で敗れ王座陥落した。

2003年8月10日、PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦のワンマッチで元UFC世界ヘビー級王者リコ・ロドリゲスと対戦。判定により勝利を収めたが、PRIDEとUFCの判定基準の相違により物議を醸す結果となった。後に英語版公式サイトにて判定に関する説明が行われた[8]

PRIDEヘビー級暫定王座獲得

ミルコ戦

2003年11月9日、PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦で行われた、ヘビー級王者ヒョードルの怪我による、ミルコ・クロコップとのPRIDEヘビー級暫定王座決定戦では、テイクダウンを奪えずスタンドで劣勢に立ち、1R終了間際には左ハイキックでダウン、かろうじてゴングに救われた。2Rは開始早々テイクダウンからマウントを奪い、ミルコのブリッジに合わせて腕ひしぎ十字固めで逆転一本勝ちを収め王座獲得に成功した。

PRIDE GRANDPRIX 2004

2004年4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦で行われたPRIDEヘビー級グランプリの1回戦で横井宏考にスピニングチョークで一本勝ちを収め、2回戦に進出した。

2004年6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDで行なわれれたグランプリ2回戦でもヒース・ヒーリングスピニングチョークで一本勝ちを収め、ベスト4に進出した。

2004年8月15日、PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦で行なわれれたグランプリ準決勝でセルゲイ・ハリトーノフを判定で下し、続くグランプリ決勝では因縁のエメリヤーエンコ・ヒョードルと再戦するも、偶然のバッティングによりヒョードルが出血したため、無効試合に終わった。

ヒョードル第3戦

2004年12月31日、PRIDE 男祭り 2004のメインイベントでPRIDEヘビー級王座とPRIDEヘビー級グランプリ王座の両タイトルを賭けてエメリヤーエンコ・ヒョードルと3度目の対戦。第2戦で圧倒されたパウンド対策は実を結んだものの、打撃、寝技の両面において完封され判定負けを喫し王座獲得に失敗した。なお、この日は会場入りが大幅に遅れてしまい、オープニングセレモニーに間に合わなかった。そのため、双子の弟のホジェリオに代打でセレモニーに参加してもらっていた[9]

2005年6月26日、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDパウエル・ナツラマウントパンチでTKO勝利を収めた。この年は1試合の出場にとどまった。

PRIDE 無差別級グランプリ 2006

2006年5月5日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦で行なわれたPRIDE無差別級グランプリの1回戦でズールに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収め、2回戦に進出した。

2006年7月1日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUNDで行なわれたグランプリ2回戦でファブリシオ・ヴェウドゥムに判定勝ちを収め、準決勝に進出した。

2006年9月10日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦で行なわれたグランプリ準決勝でジョシュ・バーネットと対戦、PRIDE史上に残る寝技対決の末、僅差の判定1-2で敗れた。

2006年12月31日、PRIDE 男祭り 2006でジョシュ・バーネットと再戦し、3-0の判定勝利を収め、リベンジを果たした。

UFC

2007年4月5日のUFC Fight Night: Stevenson vs. GuillardをUFCのダナ・ホワイト社長とともにケージサイドで観戦し、続く4月8日のUFC 69でオクタゴンに登場。ダナ・ホワイト社長からUFCに参戦することが正式に発表された[10]

また、これに前後して長年在籍したブラジリアン・トップチームを離脱。ブラック・ハウスでトレーニングを積みながら、アメリカに自身の新しいチーム「チーム・ノゲイラ」を発足した[11]

2007年7月7日、UFCデビューとなるUFC 73ヒース・ヒーリングとの3度目の対戦では、1R終盤にヒーリングのハイキックでダウンを奪われるも、それ以外では終始試合を支配して判定勝ちを収めた。

UFC世界ヘビー級暫定王座獲得

2008年2月2日、UFC 81のUFC世界ヘビー級暫定王座決定戦でティム・シルビアと対戦。1Rにはダウンを奪われるなど劣勢であったが、3Rにスイープからのギロチンチョークで一本勝ちを収め王座獲得に成功した。また、この試合は同大会のファイト・オブ・ザ・ナイトに選ばれた[12]

2008年9月、The Ultimate Fighterシーズン8フランク・ミアと共にそれぞれのチームのヘッドコーチを務めた。

2008年12月27日、暫定王座の初防衛戦となったUFC 92フランク・ミアと対戦。左フックで倒されたところにパウンドを連打されTKO負けを喫し王座陥落した。ノゲイラは、試合の一週間前までブドウ球菌感染で入院していたことを明かし、また、試合前から負傷していた膝の手術を受けた。

2009年8月29日、復帰戦となったUFC 102では、二度のダウンを奪ってランディ・クートゥアに判定勝ちを収め、王者ブロック・レスナーへの挑戦、ミアとの再戦をアピールした。ファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2010年2月20日、オーストラリアで開催されたUFC 110ケイン・ヴェラスケスと対戦。1R2分20秒、右ストレートからのパウンドでKO負け。

2010年9月25日のUFC 119で決まっていたフランク・ミアとの再戦をキャンセルして、故障箇所の腰と膝の手術を受けた。

2011年8月27日、約1年6ヶ月振りの復帰戦をUFC 134ブレンダン・シャウブと対戦し、1RKO勝ち。ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2011年12月10日、UFC 140フランク・ミアと約3年振りに再戦。パンチでダウンを奪うも、キムラロックで逆転の一本負け。キャリア初の一本負けとなった。フィニッシュのキムラロックで右上腕骨を骨折する重傷を負った[13]

2012年10月13日、UFC 153デイブ・ハーマンと対戦し、2Rに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2013年、The Ultimate Fighter: Brazil 2でファブリシオ・ヴェウドゥムと共にそれぞれのチームのヘッドコーチ役を務める。6月8日のUFC on Fuel TV 10でヘビー級ランキング3位のヴェウドゥムと約7年振りに再戦。2Rに腕ひしぎ十字固めを極められて一本負け。

2014年4月11日、UFC Fight Night: Nogueira vs. Nelsonでヘビー級ランキング9位のロイ・ネルソンと対戦し、失神KO負け。試合後、ダナ・ホワイトに引退勧告を受けた。

2014年6月17日、右膝の前十字靭帯の部分断裂を修復する手術を受けた。

2015年3月、膝と腰と肘の幹細胞治療を受けた。

2015年8月1日、約1年4ヶ月振りの復帰戦をUFC 190でヘビー級ランキング15位のステファン・ストルーフェと対戦し、判定負け。

現役引退

2015年9月1日 現役引退を発表。引退後はUFCブラジルでのアスリート・リレーションズアンバサダー(選手発掘大使)に就任することになった。


  1. ^ 「アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの項目」 『2004「総合&組技格闘技」選手名鑑』、日本スポーツ出版社、2003年11月17日
  2. ^ 格闘王国を往く(1) アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ”. Number Web. 2008年11月16日閲覧。
  3. ^ a b c d 「人生で大切なことは全て柔術で学んだ」(ノゲイラへのインタビュー) 『ブラジリアン柔術入門』、ベースボール・マガジン社、2003年、ISBN 4-583-61212-5
  4. ^ UFC 選手データ(英語)
  5. ^ 「ワールド・エクストリーム・ファイティング8」『ゴング格闘技』、日本スポーツ出版社、2000年(平成12年)4月23日発行、第33巻第4号通巻446号、79頁
  6. ^ この時スペーヒーらはヒカルド・デラヒーバに顧問を依頼したが、師であるカーウソンに敵対する行為は出来ないと断られ、代わりに己の全ての技を伝授した愛弟子としてノゲイラが預けられた。
  7. ^ シウバ、田村をKO! ミドル級王座初防衛”. スポーツナビ (2002年2月24日). 2008年11月16日閲覧。
  8. ^ Matt Hume (2003年9月4日). “A JUDGE'S EXPLANATION OF NUGUEIRA VS RODRIGUEZ” (英語). PRIDE英語版公式サイト. 2008年11月16日閲覧。
  9. ^ ジャンクSPORTS トークダイジェスト 3月13日『スポーツコメンテーター』”. フジテレビ (2005年3月13日). 2008年11月16日閲覧。
  10. ^ ノゲイラ、UFCと契約。試合は未定。DSE榊原代表は困惑 BoutReview 2007年4月9日
  11. ^ Number 681(2007年7月5日号インタビュー)
  12. ^ 松山郷 (2008年2月23日). “史上初 PRIDE&UFCヘビー級王者ノゲイラが語る、戴冠の真実、クートゥアー戦、日本マットへの思い。=GONKAKU[2.2 UFC 81 -Breaking Point-]”. 2008年11月16日閲覧。
  13. ^ ノゲイラ骨折の右腕手術「半年後100%」 nikkansports.com 2011年12月21日
  14. ^ Charles Pearson (2006年8月9日). “Tatame has Anderson Silva Interview” (英語). LOCKFLOW.com. 2008年11月16日閲覧。
  15. ^ a b 紙のプロレスRADICAL No.32(2000年10月号)






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ」の関連用語

アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS