アルナーチャル・プラデーシュ州 歴史

アルナーチャル・プラデーシュ州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 06:24 UTC 版)

歴史

この州が位置する地方がインドの管轄下となり、中国との国境紛争地帯となった発端は、1910年代半ばに開催されたシムラ会議と、ここで提示されたシムラ協定にさかのぼる。

シムラ会議の背景とシムラ協定

1922年の国境線

辛亥革命によって同君連合としての政体で君臨していた清朝が滅亡して遺領の再編が問題になった際に、チベットモンゴルの民族政権は、「文殊皇帝」(=清朝の皇帝)が退陣した結果その支配下にあった中国、チベット、モンゴルなどの諸国はそれぞれ対等な別個の国家となった、とする立場を採り、チベット、モンゴルの二国がそれぞれ独立国家として国際承認を受けることを目指して国際社会への働きかけに着手した。漢人共和主義者らは、自分たちがつくる共和国を単に漢人の土地のみを国土とする漢人国家とはせず、清朝に臣属していた諸民族の分布領域を枠組とする中国を設定し、自身の共和政権をその「中国」の「中央政府」と位置づける立場を採り、チベット、モンゴルの民族政権の服属を目指してそれぞれと戦火を交えた。この紛争を調停するべく、モンゴルはロシア、チベットはイギリス、それぞれが後ろ盾となり、シムラ会議1913年 - 1914年)、キャフタ会議1915年5月15日)が開催された。

この二つの会議で「チベットとモンゴルをそれぞれ独立国家として承認しない」「両政権は中華民国宗主権下で完全な内政自治を行使するにとどめる」「チベットの青海西康部分、モンゴルの内蒙古部分、それぞれを中国政府の統治下に置く」「両民族政権は、それぞれの国土の中核部分である、チベットは西蔵部分、モンゴルは外蒙古部分だけを管轄する」などを骨子とする協定案が、まとめられた。

1911年辛亥革命を経て清朝の主権が弱体化したことを契機としてモンゴルで独立運動が高揚し、モンゴルハルハ地方(外蒙古)の諸王公はロシア帝国の力を頼って清からの独立を決意し、1912年に新たにモンゴル国(ボグド・ハーン政権)が成立した。

1913年 - 1914年のシムラ会議では、ガンデンポタン(=チベット政府)が内政自治権を行使する領域の境界について合意が成らず、シムラ条約の批准(1914年)はイギリス、チベットの2者のみの参加にとどまった。チベット中国(北京政府)の紛争を調停したシムラ会議で、イギリスの全権をつとめたマクマホン卿英領インドアッサム地方とチベットとの境界をチベット側に受諾させた。これがマクマホンラインである。以後もチベットと中国との間は、しばしば戦火を交える緊張状態が続く。

1915年のキャフタ会議では、中国(北京政府)ロシア帝国モンゴル国(ボグド・ハーン政権)キャフタ協定を調印、批准して、以後この協定にもとづく安定した関係が築かれた。

マクマホンラインに対する中国の対応と中印国境紛争

マクマホンラインはチベット系住民の分布領域の境界より相当北方に位置するヒマラヤの嶺線付近に引かれた実効支配線である。このことから、チベットを中国の一部分だと主張する中華民国の歴代政権、中華人民共和国政府ともにこのラインを中国とインドとの国境として承認することを拒否し、1959 - 1960年にかけてインドと中華人民共和国政府の間で武力衝突が勃発した。中印国境紛争に詳述がある。この紛争では東西の紛争地帯でいずれも中国軍がインド軍を圧倒し、中国は西部紛争地域(アクサイチン地区)で自身が主張する領域に実効支配を確立する一方、東部紛争地域で一時的には全域を確保しながら、一方的にマクマホンライン以北へ撤兵した。

アルナーチャル・プラデーシュ州の成立

インドは1954年以来、この地方を東北辺境地区英語版として管理してきたが、中国との武力衝突以後、この地域に対する実効支配をより強固にする政策を取ってきた。インフラの整備につとめ、学校教育もヒンディー語に加えて英語も重要な科目と位置づけた。1987年にこの地にアルナーチャル・プラデーシュ州を設け、現在に至る。習近平政権中国固有の領土と主張して、蔵南地区(南チベット地区)に変えた。


  1. ^ Arunachal Pradesh”. 2023年7月6日閲覧。
  2. ^ Gross State Domestic Product (GSDP) at Current Prices for States and UTs from 2011-12 to 2021-22”. 2023年7月6日閲覧。
  3. ^ Arunachal Pradesh Economy Archived 8 May 2016 at the Wayback Machine., This Is My India
  4. ^ Economy of Arunachal Pradesh”. 2016年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月26日閲覧。
  5. ^ Massive dam plans for Arunachal”. Indiatogether.org (2008年2月17日). 2010年10月6日閲覧。[リンク切れ]
  6. ^ India pre-empts Chinese design in Arunachal”. The New Indian Express. 2014年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月22日閲覧。


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