ヘルツ (Hertz, Heinrich Rudolf)
ヘルツという人は
ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ
ドイツ、ハンブルクの高位中産階級に属する裕福な家庭に生まれる。 父親はユダヤ系であったが、ヘルツの一家は洗礼も受け、完全にその地の社会に同化する方向をとった。 知的な面でも手先の器用さでも一種の神童であったヘルツは、競争の激しい学校に学びながらもクラスで首席を保ち、 アラビア語も含めたいろいろな言語を習得した。
ミュンヘン大学で工学の勉強をはじめるが物理学への興味がふくらみ、20歳のとき進路を変更する。 20歳頃にはベルリン大学でヘルムホルツの指導を受けるようになり、彼のもとで学位論文を書き上げ博士号を取得する。 また、キルヒホッフの弟子でもあった。1880年、ヘルムホルツの実験助手になり、1885年、カールスルーエ工科大学物理学教授に就任する。 電磁波の検出器を発明してマクスウェル理論の証明に乗り出し、1889年にボン大学教授に就任する。
ヘルツの主な経歴
1888年、マクスウェルの光の電磁波説を実証する。 ファラデーの電気力線、磁力線の”力線”や”場”の概念をを数学的に解明し、電磁波は光速の横波で光の一種としたマクスウェルの”光の電磁波説”。 この流れを受けた科学者はヘルツの他にケルヴィン、ロッジ、フィッツジェラルドなどがいた。
ヘルツはまず電磁波検出器を発明した。狭い間隙をもつ輪形の針金であり、電磁波を検出すると間隙に火花放電が発生するというものだった。 これにより、ライデン瓶が放電する際の電気振動を利用した電磁波の観測をしようとするのだが、これは失敗する。 どうも発生する電磁波の波長が数メートルと長かったのが原因のようであった。 波長の短い電磁波を発生させる回路を水銀断続器などを用いて作成し、光と音の中間程度の波長を作りだし た。検出器によって電磁波の到来を検出する実験を行っていく。 試行錯誤を繰り返し、やがて電磁波は空間を伝播しているという確証をつかむに至る。 共振曲線、波長の測定、電波の横波性、反射、屈折、偏光性、定在波などを観察し、電波が磁力線を伴っていること、電波と磁力線は直交することも確認する。
光の電磁波説
1846年、ファラデー光の電磁波説着想。1871年、マクスウェル光の電磁波説提唱。そして1888年、ヘルツにより光の電磁波説は実証された。
1892年頃から肉体、精神の耐え難い苦痛にさいなまれる。頭蓋骨に悪性骨腫瘍ということであった。 不屈の精神で1989年の1月1日までこれに耐えるが、36歳の若さで死を迎えた。
周波数(振動数)の単位・ヘルツ
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