1944年3月-6月 第二海上護衛隊(東松船団護衛)
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「能美 (海防艦)」の記事における「1944年3月-6月 第二海上護衛隊(東松船団護衛)」の解説
1944年(昭和19年)3月15日、能美は呉防備戦隊からのぞかれる。同日付で、海上護衛総司令部隷下の第二海上護衛隊に編入された。3月16日、足摺岬沖合で雷撃され、爆雷攻撃をおこなう。その後、能美は松輸送に投入された。 22日、第一護衛船団司令官伊集院松治少将(旗艦:軽巡洋艦夕張)の指揮下、能美や平戸などは東松三号船団(10隻)を護衛して東京湾館山沖合を出発する。能美はパラオ行き船団の護衛に割り当てられ、28日に船団が分割されてからはパラオへ向かったが、30日に発生したパラオ大空襲のためサイパンに退避した。その後出港しなおして4月中旬、パラオ着。4月下旬、東京湾に戻った。 4月28日、第五護衛船団司令官吉富説三少将が率いる東松7号船団(15隻)を護衛して東京湾を出発する。5月6日、東松7号船団はサイパンに到着した。5月7日から8日にかけて船団を護衛し、サイパンとグアムを往復。9日から11日にかけて東松六号船団を護衛。14日から15日にかけてグアム沖で対潜掃蕩に従事。16日から20日にかけて船団を護衛し、グアムとサイパンを往復。20日、4520甲船団(旗艦能美)を護衛して横須賀へ向けサイパン発。26日、横須賀に帰投。 6月3日、第三護衛船団司令官門前鼎少将(旗艦松風)が指揮する3606船団(13隻)を、能美、隠岐らと護衛して東京湾館山沖を出発する。6日に横浜沖を出発、小笠原諸島父島沖を航行中の9日朝に松風(船団旗艦)がアメリカ潜水艦ソードフィッシュの雷撃で轟沈、門前少将も戦死した。第3606船団部隊はサイパン行きを中止し、同日父島に入港した。能美は東京へ引き返し、14日美保丸船団(4隻)を護衛して東京発。17日、軍隊区分戊直接護衛部隊編入を解かれ、甲直接護衛部隊に編入。 6月23日、能美は横須賀鎮守府作戦指揮を解かれ、横須賀海上護衛部隊より除かれる。同23日付で大湊警備府(司令長官井上保雄中将)作戦指揮下、軍隊区分海上護衛部隊に編入される。宗谷防備部隊に所属。 27日、能美は青森県大湊に到着した。28日、第15号駆潜艇とともに宗谷防備部隊(指揮官は宗谷防備戦隊司令千葉次雄大佐)に編入される。6月30日、北海道北端稚内に到着する。以後、能美は北東方面艦隊に協力し、樺太、千島列島、北海道方面での船団護衛、哨戒、救難に従事した。なお能美が所属していた第二海上護衛隊はサイパン島に司令部があったためサイパン島地上戦で玉砕し、7月18日付で解隊された。
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1944年3月-6月 第二海上護衛隊
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「第三号海防艦」の記事における「1944年3月-6月 第二海上護衛隊」の解説
1944年3月25日、海上護衛総司令部第二海上護衛隊に編入。横浜へ回航し、31日に東松四号船団と合流する。 4月1日、東松四号船団を護衛して木更津発。当初、本艦はサイパン止め船団の護衛として割り当てられていたが、パラオ行き船団に割り当てられていた隠岐の爆雷残量の関係で、隠岐に代わりパラオ行き船団に配当される。13日、パラオのヨオ水道に到達。20日、特設砲艦富津丸とともにダバオへ向けパラオ発。23日、ダバオ着。 5月3日、ダバオへ向け航行中の備庸丸を迎えるためダバオ発。4日、同船を伴いダバオに帰着。9日、高津丸船団を護衛しマニラへ向けダバオ発。21日、吉備津丸を護衛しマニラ発。同船を途中まで護衛し、25日マニラに帰着。28日、マスバテ島へ向けマニラ発。29日、海軍配当船天榮丸を護衛するため反転する。31日、マニラ着。 6月6日、第三南遣艦隊作戦指揮下に編入。28船団を護衛し、ハルマヘラ島ワシレへ向かう。13日、ワシレ着。15日、M24船団を護衛してマニラへ向けワシレ発。24日、マニラ着。
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