19世紀のアンゴラとは? わかりやすく解説

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19世紀のアンゴラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 22:23 UTC 版)

アンゴラの歴史」の記事における「19世紀のアンゴラ」の解説

19世紀に入るとポルトガルに於いてアフリカ内陸部探検熱はさらに高まり1831年から1832年までのジョゼ・マリア・コレイア・モンテロ少佐率いられ探検隊によるモザンビークテテから現ザンビアまでの探検嚆矢に、1843年アンゴラ北部から現コンゴ民主共和国までを探検したジョアキン・ロドリゲス・グラサ、1847年から1850年代にかけてアンゴラ南部クネネ川流域探検したベルナルディノ・ジョゼ・プロシャド、1840年代から1850年代にかけてアンゴラ内陸部首長ポルトガル権威認めさせたシルヴァ・ポルトなどが活動したアフリカ分割進んだ1870年代に入ると探検更なる段階至り、エルメネジルド・カベロとロベルト・イヴェンスを中心にアンゴラ内陸部探検地理的な知識拡大進んだこうした探検活動は、究極的に経済的な利害よりも、アンゴラモザンビーク広大な空間ポルトガル主権確保することを通じた国威発揚目的であり、ポルトガル人入植初めとする経済的な植民地開発はほとんど成功しなかった。また、このような探検並行して植民地戦争進み、特に1880年代から1890年代にかけてのアルトゥル・デ・パイヴァによる討伐隊によって、アンゴラ大部分実質的なポルトガル主権打ち立てられた。 1884年から1885年にかけてのベルリン会議 (アフリカ分割)によって、当時ヨーロッパ列強の間で進んでいたアフリカ分割原則当該地域実効支配であることが確認されると、ポルトガルはこの原則基づいてアンゴラモザンビークを結び、アフリカ横断するバラ色地図ポルトガル語版)」構想掲げて間の地域今日ザンビアマラウイジンバブエ)の実効支配急いだ。しかし、この主張イギリスセシル・ローズ掲げていた、南アフリカケープタウンからエジプトカイロまでアフリカ縦断することを目的とするイギリスの植民地計画真っ向から衝突したため、イギリス1890年1月ポルトガルに対して内陸部からの撤退要求する最後通牒送り、この要求ポルトガル屈することで、1891年6月結ばれた二度目条約ポルトガル当時領有だった地域をも含めて、ほぼ現在のアンゴラモザンビーク領域相当する200万平km領有確定したこのようにして19世紀通じた軍事的政治的努力によってポルトガル現在のアンゴラ共和国相当する地域主権を及ぼすことに成功したが、経済面ではポルトガル領における奴隷貿易1836年正式に廃止されたものの、その後1888年まで奴隷制維持したブラジルでの需要基づいて小規模ながらも1880年代まで奴隷貿易続けられるなど、アンゴラのみならずポルトガル植民地全体それまで依拠していた奴隷制以外の経済開発は進まなかった。それでも1888年ルアンダ鉄道イギリス資本によって開通するなどの出来事もあったが、概ね農業商業共に低開発状況に留まった。教育文化に関して高等教育には全く手が付けられず、出版活動においてキンブンド語ポルトガル語併用雑誌アンゴラ未来』(1882)が創刊されたことが特筆されるのみである。

※この「19世紀のアンゴラ」の解説は、「アンゴラの歴史」の解説の一部です。
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