19世紀のアンゴラ
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「アンゴラの歴史」の記事における「19世紀のアンゴラ」の解説
19世紀に入るとポルトガルに於いてもアフリカ内陸部の探検熱はさらに高まり、1831年から1832年までのジョゼ・マリア・コレイア・モンテロ少佐に率いられた探検隊によるモザンビークのテテから現ザンビアまでの探検を嚆矢に、1843年にアンゴラ北部から現コンゴ民主共和国までを探検したジョアキン・ロドリゲス・グラサ、1847年から1850年代にかけてアンゴラ南部のクネネ川流域を探検したベルナルディノ・ジョゼ・プロシャド、1840年代から1850年代にかけてアンゴラ内陸部の首長にポルトガルの権威を認めさせたシルヴァ・ポルトなどが活動した。アフリカ分割が進んだ1870年代に入ると探検は更なる段階に至り、エルメネジルド・カベロとロベルト・イヴェンスを中心にアンゴラ内陸部の探検と地理的な知識の拡大が進んだ。こうした探検活動は、究極的には経済的な利害よりも、アンゴラやモザンビークの広大な空間にポルトガルの主権を確保することを通じた国威発揚が目的であり、ポルトガル人の入植を初めとする経済的な植民地開発はほとんど成功しなかった。また、このような探検と並行して植民地戦争が進み、特に1880年代から1890年代にかけてのアルトゥル・デ・パイヴァによる討伐隊によって、アンゴラの大部分に実質的なポルトガルの主権が打ち立てられた。 1884年から1885年にかけてのベルリン会議 (アフリカ分割)によって、当時ヨーロッパ列強の間で進んでいたアフリカ分割の原則が当該地域の実効支配であることが確認されると、ポルトガルはこの原則に基づいてアンゴラとモザンビークを結び、アフリカを横断する「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想を掲げて間の地域(今日のザンビア、マラウイ、ジンバブエ)の実効支配を急いだ。しかし、この主張はイギリスのセシル・ローズが掲げていた、南アフリカのケープタウンからエジプトのカイロまでアフリカを縦断することを目的とするイギリスの植民地計画と真っ向から衝突したため、イギリスは1890年1月にポルトガルに対して内陸部からの撤退を要求する最後通牒を送り、この要求にポルトガルが屈することで、1891年6月に結ばれた二度目の条約でポルトガルは当時未領有だった地域をも含めて、ほぼ現在のアンゴラとモザンビークの領域に相当する約200万平方kmの領有を確定した。 このようにして19世紀を通じた軍事的、政治的努力によってポルトガルは現在のアンゴラ共和国に相当する地域に主権を及ぼすことに成功したが、経済面ではポルトガル領における奴隷貿易は1836年に正式に廃止されたものの、その後も1888年まで奴隷制を維持したブラジルでの需要に基づいて小規模ながらも1880年代まで奴隷貿易が続けられるなど、アンゴラのみならずポルトガル植民地全体でそれまでに依拠していた奴隷制以外の経済開発は進まなかった。それでも1888年にルアンダ鉄道がイギリス資本によって開通するなどの出来事もあったが、概ね農業、商業共に低開発な状況に留まった。教育や文化に関しても高等教育には全く手が付けられず、出版活動においてキンブンド語とポルトガル語併用の雑誌『アンゴラの未来』(1882)が創刊されたことが特筆されるのみである。
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