黄金の自由
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黄金の自由(おうごんのじゆう、ラテン語:Aurea Libertas アウレア・リベルタス、ポーランド語:Złota Wolność ズウォタ・ヴォルノシチ)、貴族共和国または貴族民主主義とは、ポーランド王国およびルブリン合同(1569年)後のポーランド・リトアニア共和国において機能した、貴族支配による民主主義の政治システム。このシステムの下では、領地を有する全ての貴族(シュラフタ)が法的に平等であり、きわめて多くの諸特権を享受していた。この特権に基づき、貴族階級は立法府であるセイム(ポーランド議会)を構成し、国王を選挙によって選出していた(選挙王政)。
- ^ このような見方は、現代、特に20世紀中ごろに共産主義思想、文化闘争以後のドイツや独立前後のリトアニアなどで高まった国粋主義による反ポーランド思想、シオニズムに代表されるユダヤ人社会の民族運動の発展と同時期に平行して起こったものである。実は「貴族の天国、ユダヤ人の楽園、農民の地獄」の言葉は当時のポーランドのものでなく、20世紀ドイツのユダヤ人小説家アルフレッド・デブリン(Alfred Döblin)がその著書『Reise in Polen』の中で編み出したもので、そういった一個人の見方が正しいのかどうかがまったく吟味されることなく一人歩きし勝手に「有名な言葉」として広まったものである。実際のところ、他国との比較で見れば、例えば多くのロシア人農民がモスクワ大公国における領主たちの苛烈な搾取に耐えかねて逃げ出し、難民となって当時のポーランドにやってきて安住の地を見出した事実があり、このことからも当時のポーランドが「農民の地獄」だったとはとても言いがたい。Nicholas Valentine Riasanovsky (2000). A History of Russia. Oxford University Press. ISBN 0195121791 Googleブック
- 1 黄金の自由とは
- 2 黄金の自由の概要
- 3 国王は君臨すれども統治せず
- 4 類似したシステム
黄金の自由
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「ポーランド・リトアニア共和国」の記事における「黄金の自由」の解説
詳細は「黄金の自由」を参照 共和国の政治原則は「我が国は国王の統轄の下にある共和国である」というものである。大法官ヤン・ザモイスキはこの原則を「国王は君臨すれども統治せず "Rex regnat et non gubernat" 」と要約する。共和国は選挙王、元老院(セナト)のほか、代議制の議会であるセイムを有していた。国王はヘンリク条項および選出時に取りきめられるパクタ・コンヴェンタにより規定された共和国市民(=シュラフタ)の諸権利を尊重することを義務付けられた。 王権は強大な貴族階級の権力のために制限を受けていた。歴代の国王はポーランドの政治システム(およびほぼ前例のない宗教的寛容)の根幹をなすヘンリク条項に署名せねばならなかった。時代が下るにつれ、ヘンリク条項はパクタ・コンヴェンタと組み合わされていき、選挙王が誓うべき明確な誓約という性格をもった。その結果、国王は常に元老院の監督を受けるようになった。のちにヨーロッパ初の成文憲法で本格的な近代民主主義憲法である1791年5月3日ポーランド憲法が成立すると、国王は「国家の所有者」や「国民の支配者」ではなく、「国民が所有する国家」に対して無限の責任を負う「国家の代表者」(近代的な立憲君主)であると規定された。 共和国の政治システムとしての「黄金の自由」(ポーランド語表記:Zlota Wolność,この語は1573年から使われ始めた)は、以下の諸要素をその基礎とした。 国王自由選挙…国王選出は投票を希望する全てのシュラフタによる自由選挙によって行う。 セイム…国王によって2年ごとに召集される共和国の代議制議会。 パクタ・コンヴェンタ…即位時に国王が共和国政府との間で取り決める統治契約。諸権利の請願も行われる。国王の政治行動を束縛し、初期のヘンリク条項に由来する。 ロコシュ(抵抗権)…貴族に保障されている諸特権が国王によって脅かされた場合、反乱を起こすことを法的に認められる権利。 リベルム・ヴェト…セイムでの決議において多数派の決定を、代議員一人の反対によって否決出来る権利。セイムの会期中、全ての法案を廃案にしてきた「無制限の拒否権」として悪名高い。17世紀後半の危機の時代に入ると、リベルム・ヴェトは地方議会(セイミク)にも適用された。 連盟…共通の政治目的のために団体を結成する権利。 3地域(後述)のみが共和国内の自治領としての権利を享受していた。各県にはそれぞれに地方議会(セイミク)が置かれていた。セイミクは国家立法府(セイム)に送り込む代議員を選出し、指示書によって代議員に様々な要望・提案をする権利を有していた。リトアニア大公国はポーランド王国(王冠領と呼ばれた)とは別個に軍隊、国庫、官職体系を組織していた。 黄金の自由は当時としては国家に特異な性格を与えたが、同時代にはヴェネツィア共和国のような都市国家が類似した政治システムを採用していた(両国は「最も静穏なる共和国」を自称した点でも共通していた)。ヨーロッパ諸国が中央集権化、絶対主義、宗教戦争や王朝による争いに直面している時期、共和国は地方分権、国家連合と連邦制、民主政治、宗教的寛容さらには平和主義までも経験していた。シュラフタがしばしば国王による戦争計画を廃案にしたことは、民主的平和論に関する論議に相当するものとさえ見なされる。 この政治システムは他の階級と王権に立脚した政治システムに対するシュラフタ貴族階級の独占的な勝利に由来する。この時代、シュラフタはニヒル・ノヴィ(1505年)を始めとして十分すぎる特権を蓄積し、どの王も彼らの支配を力で捩じ伏せることは出来なかった。共和国の政治システムは単純なカテゴライズには適しないが、一応は以下のような定義付けが混ざり合う状態にあるといえる: 広大な自治領を領域内に含む国家連合ないし連邦。共和国を国家連合か連邦体制にあったかは限定しにくい。 寡頭制。シュラフタのみが参政権を持ったといっても、彼らの階層は人口の約10%を占めていたのであり、少数者による支配というイメージとはずれがある。 全てのシュラフタに等しい権利と特権が与えられる民主政治。彼らの拠るセイムが立法、外交、宣戦布告、課税(既存の税制の変更、新しい税の制定)といった重要な事項について国王に反対出来る。共和国は当時のヨーロッパ諸国の中で最も高い、約10%の参政権者を抱えていた。フランスでは1831年の時点で人口の約1%、1867年のイギリスでは約3%に参政権が与えられているに過ぎなかったのとは対照的である。 選挙王制。シュラフタによって選出される国王、つまり世襲君主でない国王が国家の首長であること。 立憲君主制、つまり君主がパクタ・コンヴェンタやその他の法律によって誓約されており、シュラフタは国王が法的に不正な行為をしている場合は従う義務はないとされた。
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