黄金の自由とは? わかりやすく解説

黄金の自由

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/03 14:33 UTC 版)

黄金の自由(おうごんのじゆう、ラテン語Aurea Libertas アウレア・リベルタスポーランド語Złota Wolność ズウォタ・ヴォルノシチ)、貴族共和国または貴族民主主義とは、ポーランド王国およびルブリン合同1569年)後のポーランド・リトアニア共和国において機能した、貴族支配による民主主義の政治システム。このシステムの下では、領地を有する全ての貴族(シュラフタ)が法的に平等であり、きわめて多くの諸特権を享受していた。この特権に基づき、貴族階級は立法府であるセイム(ポーランド議会)を構成し、国王を選挙によって選出していた(選挙王政)。


  1. ^ このような見方は、現代、特に20世紀中ごろに共産主義思想、文化闘争以後のドイツや独立前後のリトアニアなどで高まった国粋主義による反ポーランド思想シオニズムに代表されるユダヤ人社会の民族運動の発展と同時期に平行して起こったものである。実は「貴族の天国、ユダヤ人の楽園、農民の地獄」の言葉は当時のポーランドのものでなく、20世紀ドイツのユダヤ人小説家アルフレッド・デブリン(Alfred Döblin)がその著書『Reise in Polen』の中で編み出したもので、そういった一個人の見方が正しいのかどうかがまったく吟味されることなく一人歩きし勝手に「有名な言葉」として広まったものである。実際のところ、他国との比較で見れば、例えば多くのロシア人農民がモスクワ大公国における領主たちの苛烈な搾取に耐えかねて逃げ出し、難民となって当時のポーランドにやってきて安住の地を見出した事実があり、このことからも当時のポーランドが「農民の地獄」だったとはとても言いがたい。Nicholas Valentine Riasanovsky (2000). A History of Russia. Oxford University Press. ISBN 0195121791  Googleブック


「黄金の自由」の続きの解説一覧

黄金の自由

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:29 UTC 版)

ポーランド・リトアニア共和国」の記事における「黄金の自由」の解説

詳細は「黄金の自由」を参照 共和国政治原則は「我が国国王統轄の下にある共和国である」というものである大法官ヤン・ザモイスキはこの原則を「国王は君臨すれども統治せず "Rex regnat et non gubernat" 」と要約する共和国選挙王元老院セナト)のほか、代議制議会であるセイム有していた。国王ヘンリク条項および選出時に取りきめられるパクタ・コンヴェンタにより規定され共和国市民(=シュラフタ)の諸権利尊重することを義務付けられた。 王権強大な貴族階級権力のために制限受けていた。歴代国王ポーランド政治システム(およびほぼ前例のない宗教的寛容)の根幹をなすヘンリク条項署名せねばならなかった。時代が下るにつれ、ヘンリク条項パクタ・コンヴェンタ組み合わされていき、選挙王が誓うべき明確な誓約という性格をもった。その結果国王は常に元老院監督を受けるようになった。のちにヨーロッパ初の成文憲法本格的な近代民主主義憲法である1791年5月3日ポーランド憲法成立すると、国王は「国家所有者」や「国民支配者ではなく、「国民所有する国家に対して無限の責任を負う国家代表者」(近代的な立憲君主)であると規定された。 共和国政治システムとしての「黄金の自由」(ポーランド語表記:Zlota Wolność,この語は1573年から使われ始めた)は、以下の諸要素をその基礎とした。 国王自由選挙国王選出投票希望する全てのシュラフタによる自由選挙によって行う。 セイム国王によって2年ごとに召集される共和国代議制議会パクタ・コンヴェンタ即位時に国王共和国政府との間で取り決める統治契約諸権利請願行われる国王政治行動束縛し初期ヘンリク条項由来するロコシュ抵抗権)…貴族保障されている諸特権国王によって脅かされ場合反乱を起こすことを法的に認められる権利リベルム・ヴェトセイムでの決議において多数派決定を、代議員一人反対によって否決出来権利セイム会期中、全ての法案廃案にしてきた「無制限拒否権」として悪名高い17世紀後半危機の時代に入ると、リベルム・ヴェト地方議会(セイミク)にも適用された。 連盟…共通の政治目的のために団体結成する権利。 3地域後述)のみが共和国内の自治領としての権利享受していた。各県にはそれぞれに地方議会(セイミク)が置かれていた。セイミクは国家立法府セイム)に送り込む代議員選出し指示書によって代議員様々な要望提案をする権利有していた。リトアニア大公国ポーランド王国王冠領呼ばれた)とは別個に軍隊国庫官職体系組織していた。 黄金の自由は当時としては国家特異な性格与えたが、同時代にはヴェネツィア共和国のような都市国家類似した政治システム採用していた(両国は「最も静穏な共和国」を自称した点でも共通していた)。ヨーロッパ諸国中央集権化絶対主義宗教戦争王朝による争い直面している時期共和国地方分権国家連合連邦制民主政治宗教的寛容さらには平和主義までも経験していた。シュラフタがしばしば国王による戦争計画廃案にしたことは、民主的平和論に関する論議相当するものとさえ見なされる。 この政治システムは他の階級王権立脚した政治システム対すシュラフタ貴族階級独占的な勝利由来する。この時代シュラフタはニヒル・ノヴィ(1505年)を始めとして十分すぎる特権蓄積し、どの王も彼らの支配力で捩じ伏せることは出来なかった。共和国政治システム単純なカテゴライズには適しないが、一応は以下のような定義付け混ざり合う状態にあるといえる広大な自治領領域内に含む国家連合ないし連邦共和国国家連合連邦体制にあったかは限定しにくい。 寡頭制シュラフタのみが参政権持ったといっても、彼らの階層人口の約10%占めていたのであり、少数者による支配というイメージとはずれがある。 全てのシュラフタ等し権利特権与えられる民主政治。彼らの拠るセイム立法外交宣戦布告課税既存税制変更新しい税の制定)といった重要な事項について国王反対出来る。共和国当時ヨーロッパ諸国の中で最も高い、約10%参政権者抱えていた。フランスでは1831年時点人口の約1%1867年イギリスでは約3%に参政権与えられているに過ぎなかったのとは対照的である。 選挙王制シュラフタによって選出される国王、つまり世襲君主でない国王国家首長であること。 立憲君主制、つまり君主パクタ・コンヴェンタその他の法律によって誓約されており、シュラフタ国王法的に不正な行為をしている場合は従う義務はないとされた。

※この「黄金の自由」の解説は、「ポーランド・リトアニア共和国」の解説の一部です。
「黄金の自由」を含む「ポーランド・リトアニア共和国」の記事については、「ポーランド・リトアニア共和国」の概要を参照ください。

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