陸軍の権力闘争から派閥結成までとは? わかりやすく解説

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陸軍の権力闘争から派閥結成まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)

山縣有朋」の記事における「陸軍の権力闘争から派閥結成まで」の解説

戦争財政枯渇し経費節減したため、陸軍内には不満が蓄積するようになったまた、山縣勲功調査委員として恩賞選定責任者となっていたことも恨みを買う事となる。 翌明治11年1878年8月23日兵士待遇悪くしたり恩賞下級兵士与えなかったりしたことが原因近衛歩兵大隊暴動竹橋事件)が発生し鎮圧された。しかし山縣への不満の声は高まりストレス悩まされ山縣は「精神不調症」となり、9月半ばから11月7日まで転地療養を行う。 山縣は、竹橋事件背景には自由民権運動影響があると考えこの間10月12日に、西周起草させた『軍人訓誡』(軍人勅諭原型)を陸軍へ配布し軍紀引き締め図った伊藤岩倉らは山縣を傷つけない形で収拾図ろうとし、内閣改造案の策定取り掛かった。しかし、内閣改造政府弱さ晒すことになるという井上馨反対有り西郷従道提案参謀局独立して参謀本部成立することとなった12月7日大山巌参謀次長とする参謀本部編成され12月24日陸軍卿を辞任した山縣参議のまま初代参謀本部となったこの頃参謀局在籍していた桂太郎は、山縣腹心となっていた。翌年10月山縣は、近衛都督地位参謀局であった鳥尾小弥太に譲るが、後に彼は山縣らの批判者となる。 参謀本部充実させる一方山縣1879年から翌年にかけて将校余名駐在武官語学研究生として清へ派遣し兵役改革調査をさせた。そしてその報告を受け、1880年明治13年11月30日 天皇に「進隣邦兵備略表」を上奏明治13年1880年)には山縣親し大山巌陸軍卿となり、陸軍全権山縣握っていると評される態となった。軍編成鎮台から師団変更検討など軍の整備進めた明治十四年の政変では伊藤支持し黒田清隆進め官有払い下げ中止求めている。 明治15年1882年1月軍人政治関与禁止改め記した軍人勅諭制定伊藤らから別の省の卿になることを求められるが、拒否して参謀本部長の地位留まる明治15年1882年3月伊藤憲法調査のため外国旅立ち参事院議長辞任すると、山縣参謀本部長を辞任して後任参事院議長就任翌年8月伊藤帰国するまで在任した参謀本部長は辞任したものの、参謀本部御用掛として参謀本部強い影響力残した伊藤帰国後は内務卿転任明治17年1884年)の華族令制定の際に華族列して伯爵除され大山川上操六らと陸軍改造拡充計画し同年2月大山陸軍卿が欧州視察向かった後は、内務卿兼任のまま参謀本部長を勤める。大山帰国した後も兼任解かれなかったが、これは陸軍参謀本部自立考え山縣にとって好ましい状態ではなかった。翌明治18年1885年12月22日山縣願い参謀本部長の兼任解かれた。同日内閣制度創設内務卿の名称が変わると、第1次伊藤内閣内務大臣となった三浦梧楼四将軍派、陸軍若手月曜会山縣らの主導による軍拡反対また、予算上の問題から伊藤井上軍拡計画再考求めたことや、内部分裂恐れて四将軍派の懐柔提案したこともあり、山縣らの軍拡計画明治26年1893年)度まで延期となるなど一向に進まなかった。 明治19年1886年7月10日陸軍総務局長は、監軍部廃止参謀本部勢力抑制目的とした検閲条例陸軍進級条例改正案閣議提出した。この条例には四将軍派の曾我参謀次長のみならず明治天皇裁可渋ったまた、三浦らも大山陸相公然と批判し、これを受けた大山は「意見が通らなければ辞職する」といい、大山支持薩摩軍人揃って辞表提出する騒ぎとなった4月24日伊藤説得明治天皇監軍一つ残置する修正させた後に、この条例裁可した。陸軍首脳公然と批判した曾我三浦閑職左遷され、自ら辞表提出している。一連の対立に際して山縣表立って動いていないが、一貫して大山らを支持し四将軍派の排除一役買った反対派がいなくなり陸軍改革の手着々と進んだことにより、陸軍山縣中心とする派閥形成されていった山縣積極的に人材登用行いをはじめ児玉源太郎岡沢精など同郷人や中村雄次郎木越安綱ら他藩出身者軍部取り立て派閥拡大していった。 軍拡組織体制整い明治21年師団への変更参謀本部改編が行われ、参謀本部は翌明治22年参謀総長を長とする軍事組織へと改編完了、のちに同様の組織として海軍軍令部作られ陸海軍双方参謀本部完成した。 ただし、平常時軍政関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣内閣協議する慣例で、軍の中心陸軍省にあり、参謀本部は完全に陸軍省から独立した部署には成りえていなかった。

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