陸軍の権力闘争から派閥結成まで
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「山縣有朋」の記事における「陸軍の権力闘争から派閥結成まで」の解説
戦争で財政が枯渇し経費を節減したため、陸軍内には不満が蓄積するようになった。また、山縣は勲功調査委員として恩賞選定の責任者となっていたことも恨みを買う事となる。 翌明治11年(1878年)8月23日、兵士の待遇を悪くしたり恩賞を下級兵士に与えなかったりしたことが原因で近衛歩兵大隊の暴動(竹橋事件)が発生し、鎮圧された。しかし山縣への不満の声は高まり、ストレスに悩まされた山縣は「精神不調症」となり、9月半ばから11月7日まで転地療養を行う。 山縣は、竹橋事件の背景には自由民権運動の影響があると考え、この間の10月12日に、西周に起草させた『軍人訓誡』(軍人勅諭の原型)を陸軍へ配布し、軍紀の引き締めを図った。伊藤・岩倉らは山縣を傷つけない形で収拾を図ろうとし、内閣改造案の策定に取り掛かった。しかし、内閣改造が政府の弱さを晒すことになるという井上馨の反対も有り、西郷従道の提案で参謀局は独立して参謀本部が成立することとなった。12月7日に大山巌を参謀次長とする参謀本部が編成され、12月24日陸軍卿を辞任した山縣は参議のまま初代参謀本部長となった。この頃参謀局に在籍していた桂太郎は、山縣の腹心となっていた。翌年10月に山縣は、近衛都督の地位を参謀局長であった鳥尾小弥太に譲るが、後に彼は山縣らの批判者となる。 参謀本部を充実させる一方、山縣は1879年から翌年にかけて将校十余名と桂を駐在武官や語学研究生として清へ派遣し、兵役改革を調査をさせた。そしてその報告を受け、1880年(明治13年)11月30日 天皇に「進隣邦兵備略表」を上奏。 明治13年(1880年)には山縣と親しい大山巌が陸軍卿となり、陸軍の全権を山縣が握っていると評される状態となった。軍編成を鎮台から師団変更の検討など軍の整備も進めた。 明治十四年の政変では伊藤を支持し、黒田清隆の進める官有物払い下げの中止を求めている。 明治15年(1882年)1月に軍人の政治関与禁止を改めて記した軍人勅諭を制定。伊藤らから別の省の卿になることを求められるが、拒否して参謀本部長の地位に留まる。 明治15年(1882年)3月、伊藤が憲法調査のため外国へ旅立ち、参事院議長を辞任すると、山縣が参謀本部長を辞任して後任の参事院議長に就任。翌年8月に伊藤が帰国するまで在任した。参謀本部長は辞任したものの、参謀本部御用掛として参謀本部に強い影響力を残した。伊藤の帰国後は内務卿に転任。 明治17年(1884年)の華族令制定の際に華族に列して伯爵に除され、大山、桂、川上操六らと陸軍の改造・拡充を計画し、同年2月に大山陸軍卿が欧州視察に向かった後は、内務卿兼任のまま参謀本部長を勤める。大山が帰国した後も兼任は解かれなかったが、これは陸軍と参謀本部の自立を考える山縣にとって好ましい状態ではなかった。翌明治18年(1885年)12月22日、山縣の願いで参謀本部長の兼任は解かれた。同日に内閣制度創設で内務卿の名称が変わると、第1次伊藤内閣の内務大臣となった。三浦梧楼ら四将軍派、陸軍内若手の月曜会は山縣らの主導による軍拡に反対。また、予算上の問題から伊藤と井上が軍拡計画の再考を求めたことや、内部分裂を恐れて四将軍派の懐柔を提案したこともあり、山縣らの軍拡計画は明治26年(1893年)度まで延期となるなど一向に進まなかった。 明治19年(1886年)7月10日、桂陸軍総務局長は、監軍部の廃止と参謀本部の勢力抑制を目的とした検閲条例と陸軍進級条例の改正案を閣議に提出した。この条例には四将軍派の曾我参謀次長のみならず、明治天皇も裁可を渋った。また、三浦らも大山陸相を公然と批判し、これを受けた大山は「意見が通らなければ辞職する」といい、大山支持の薩摩軍人も揃って辞表を提出する騒ぎとなった。4月24日伊藤の説得で明治天皇は監軍を一つ残置すると修正させた後に、この条例を裁可した。陸軍首脳を公然と批判した曾我と三浦は閑職に左遷され、自ら辞表を提出している。一連の対立に際して山縣は表立って動いていないが、一貫して大山らを支持し四将軍派の排除に一役買った。 反対派がいなくなり陸軍改革も桂らの手で着々と進んだことにより、陸軍は山縣を中心とする派閥が形成されていった。 山縣は積極的に人材登用を行い、桂をはじめ児玉源太郎、岡沢精など同郷人や中村雄次郎、木越安綱ら他藩出身者も軍部へ取り立て、派閥を拡大していった。 軍拡と組織体制も整い、明治21年に師団への変更と参謀本部の改編が行われ、参謀本部は翌明治22年に参謀総長を長とする軍事組織へと改編が完了、のちに同様の組織として海軍軍令部も作られ陸海軍双方の参謀本部が完成した。 ただし、平常時で軍政に関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣が内閣と協議する慣例で、軍の中心は陸軍省にあり、参謀本部は完全に陸軍省から独立した部署には成りえていなかった。
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