かわかみ‐そうろく〔かはかみサウロク〕【川上操六】
川上操六 かわかみ そうろく
鹿児島生まれ。陸軍軍人。父は鹿児島藩士。戊辰戦争に従軍。明治4年(1871)陸軍に出仕。西南戦争では、熊本城籠城で功を立てる。17年(1884)大山厳に随行し欧州各国の兵制を視察。帰国後の18年(1885)参謀本部次長。20年(1887)再び欧州に留学し、ドイツで兵学を学ぶ。帰国後参謀次長。日清戦争では大本営陸軍上席参謀として作戦を指導した。31年(1898)参謀総長に就任。同年陸軍大将。陸軍の兵制改革を行い、近代的な戦略の導入に貢献した。
キーワード | 陸軍軍人 |
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川上操六
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/15 20:17 UTC 版)
川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元年11月11日〉 - 1899年〈明治32年〉5月11日)は、明治期の日本の陸軍軍人[1]。旧薩摩藩臣。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。
- ^ 朝日日本歴史人物事典「川上操六」
- ^ 雄山閣編刊『類聚伝記大日本史 第14巻陸軍編』1935年、85-86頁。
- ^ 大植四郎編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年、564頁。
- ^ 半藤一利著『山県有朋』(ちくま文庫)
- ^ 山本陽、篠原修「アーバンデザインとしての屋外彫刻の歴史的展開に関する研究 ~戦前の東京府内公共空間に設置された屋外彫刻をケーススタディとして~」『土木史研究講演集』第30巻、土木学会土木史研究委員会、2010年、235-242頁、2021年5月4日閲覧。
- ^ 『官報』第621号「叙任及辞令」1885年7月27日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ a b 『官報』第4757号「叙任及辞令」1899年5月13日。
- ^ 『官報』第561号「賞勲叙任」1885年5月18日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第2675号「叙任及辞令」1892年5月31日。
- ^ 『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年8月6日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』1885年2月23日「賞勲叙任」。
- ^ 『官報』第684号「叙任」1885年10月9日。
- ^ 『官報』第1508号「叙任及辞令」1888年7月10日。
- ^ 『官報』第2636号「叙任及辞令」1892年4月15日。
- ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1894年10月20日日。
- ^ 『官報』第3852号「叙任及辞令」1896年5月5日。
- ^ 『官報』1898年5月4日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1898年5月20日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1898年7月5日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1898年10月7日「叙任及辞令」。
- ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、457頁。
- 1 川上操六とは
- 2 川上操六の概要
- 3 略歴
- 4 栄典
- 5 川上操六が登場する作品
川上操六
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:06 UTC 版)
陸軍中将・参謀本部次長。陸奥と共に清国との全面戦争を画策し、東学党の乱の終結後に天津条約に反し、朝鮮半島に駐屯する清国軍の2倍超の軍隊を派兵する。
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