陳寿への非難
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『三国志』については、優れた歴史書であるとの評価が高い。夏侯湛は『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。 『晋書』には陳寿の存命中に陳寿が個人的な恨み、筆を曲げたといううわさが流れたとされている。例えば、かつての魏の丁儀一族の子孫達に当人の伝記について「貴方のお父上のことを、今、私が書いている歴史書で高く評価しようと思うが、ついては米千石を頂きたい」と原稿料を要求し、それが断られるとその人物の伝記を書かなかったという話がある。また、かつて諸葛亮が自分の父を処罰し、自身が子の諸葛瞻に疎まれたことを恨んで、諸葛亮の伝記で「臨機応変の軍略は、彼の得手ではなかったからであろうか」とそれを低く評価し、諸葛瞻を「書画に巧みで、名声だけが実質以上であった」などと書いたのだといった話も伝わっている。 諸葛瞻について肯定的な評価をしていないのは事実である。『晋書』の他にも、常璩が『華陽国志』に、陳寿が諸葛瞻から恥辱を受けた恨み故に、『三国志』で諸葛瞻を悪く書いたと語った蜀漢の長老の話を記しており、陳寿に対する同様の悪評は、340年に完成した王隠の『晋書』など類書に記録されており早くから広まっていた(正史『晋書』は648年刊)。だが諸葛瞻については、東晋の干宝も『晋紀』において、国家を守り父の志を継いで忠孝を尽くそうとした点は評価しながらも、能力についてはさほど評価するほどではないとしている。 『晋書』における陳寿が私怨による曲筆を行ったという記述は、清代には王鳴盛や趙翼による反論が行われたが、これらも事実誤認が多く緻密な考証とは言いがたい。陳寿の曲筆を指摘するもので最も批判を受けたのが高貴郷公殺害の経緯である。西晋に仕えたという立場上、その禅譲という正統性に対して重大な瑕疵を与えうるこの件に関して陳寿は隠蔽せざるを得ず、詳細を記述していない。唐代の考証学者劉知幾は陳寿が蜀では史書を編纂する役人をほとんど置いていなかったとしているが、『史通』曲筆篇で「蜀志後主伝に『蜀には史官がいないから災祥も記録されなかった』とあるのに、蜀志には災祥が散見される。史官が設けられなかったのであれば、災祥は何によって記録されたのか?陳寿が蜀の史官の存在を否定したことは私怨によるものである」と指摘した上で「記言の奸賊、戴筆の凶人」と罵倒し、「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と激しく糾弾した。 また、陳寿はあくまで魏を正統な王朝として扱ったが、蜀に対しては劉備を「先主」、劉禅を「後主」と呼び、即位の際の詔をすべて掲載するなど特別扱いしており、呉の孫権が名を呼び捨てとしているのとは明らかな格差がある。朱彝尊はこれを蜀を正統王朝としたい陳寿の意図が秘められていたのではないかとみているが、魏を正統王朝としていた西晋期において陳寿の記述が問題視されていた形跡はない。しかし東晋期以降、習鑿歯らによる蜀漢正統論が高まるにつれ、陳寿が蜀漢を正統としていないとして批判が加えられるようになった。更に時代が下ると、諸葛亮の神格化や蜀漢正統論者の朱熹の朱子学が、朝廷における儒教の公式解釈とされた事も相まって、陳寿は一層非難を浴びることになった。一方で、蜀を正統としながらも晋の公式見解に沿わざるを得なかった悲劇の人という見解もみられ、その見地から不遇な人生を送ったという評価も多く行われてきた。 一方で研究者からは陳寿が当時の政権である西晋自体におもねり、その正当性を高める記述を行っているという指摘もある。また恩人である杜預の祖父・杜畿はその業績に比べてはるかに称賛が加えられていると指摘されている。
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