解放令公布後の部落解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 00:07 UTC 版)
明治4年8月28日の解放令公布の後、明治政府は実質的な解放政策を一切行わなかった。明治政府から見れば解放令はあくまでも欧米諸国から押し付けられた物に他ならなかった。その上、当初から解放令の公布は天皇制の否定に直結しかねない行為であり天皇制と矛盾する、といった意見が明治政府内から数多く出ており、明治政府としては解放令の存在自体が到底認めがたい物であった。結果として、身分解放は「四民平等(しみんびょうどう)理念による身分の解放ではなく、「地租徴収」実施のためだけに出された名だけの身分解放にとどまり、渋沢・杉浦の「四民平等」を追求した人権論に根ざした早期解放論も、大木・大江の「生活改善」による格差是正後の漸進解放論も最初から無かった事となった。さらに、皇族華族取扱規則が定められ華族が四民の上に立つことが決まり、爵位制度の検討と制定が進み、大久保利通らが新たに華族となるなど、新たな貴族階級が登場したことも、解放令(と四民平等)の否定に追い打ちをかけた。当然のことながら部落解放政策は行われず、被差別部落住民に対する集団リンチ事件といえる解放令反対一揆も全く取り締まられなかった。 一方で、板垣退助、江藤新平など身分制度の撤廃を強く求めた明治維新の元勲もこの時期、政府の参議の座からの下野を余儀なくされており、政府内では大久保利通ら身分制度の撤廃に消極的勢力が力を増した。板垣らは「すべて人間は生まれながらに自由かつ平等である」という主張のもとに左院に民撰議院設立建白書を提出するが、政府により却下された。その後も同様の建白書が数多く提出されるが、ことごとく却下された。 そして皮肉にも、解放令によって部落の生活水準は下降した。元被差別身分が差別から解放されることはなく、むしろ江戸時代に有していた所有地の無税扱や死牛馬取得権などの独占権を喪失した上、大木の構想した生活改善事業も行われなかったためであった。このため、洞村移転問題など解放令の趣旨とは全く正反対の事例も数多く発生した。また、解放令とともに戸籍法の手直しが行われたものの、現場担当者の事務処理の混乱や意識改革の遅れもあって翌年編製された壬申戸籍における「新平民」表記問題につながることになった。全国水平社の設立後も部落の生活水準の改善はほとんど行われず、完全なる平等を謳った日本国憲法の施行によってようやく実質的な解放政策が行われることとなったのである。
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