観音講
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村の全戸が会員の女性限定の集会で、毎月観音堂にて葬儀の時に使われる御詠歌を習う。しかし、近年家で葬式を行うことが減り御詠歌を覚える必要性が減ったことや社会状況が変わったことから、一部が存続に疑問を呈している。過去には観音講が中止になった年があったものの、その際火事が起こり「観音講をやめると火事が起こる」と信じられるようになった。
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観音講
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:23 UTC 版)
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観音講
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 04:35 UTC 版)
北生振では毎年3月17日になると、地域初の助産師(産婆)であった佐々木トメを偲び、また子育てを守護する観音菩薩を祀る「観音講」が開かれる。地域の女性が交代で当番になって寄附を集め、買い物や料理を行うことから、別名を女の祭りという。一般的な観音講は観音菩薩を中心とする宗教組織だが、北生振の観音講は宗教色が薄く、代表者や組織もない。春の農作業前に女性だけが催す、ささやかな集いといった趣がある。 観音講の始まりについて正確なところは不明だが、「佐々木トメ老婆紀念碑」が建立された1911年(明治44年)11月以降のことと思われ、翌1912年(明治45年)3月17日が初回だったと推測される。当初の会場は、生振北8線北47番地に所在した発泉小学校だったと伝えられている。そこではトメが産科術の知識を教えるとともに、子供の健やかな成長を観音に祈る、女性だけの茶話会が催されていた。また、祭りの日には子供たちに菓子が配られたという証言がある。そしてトメが死没した1923年(大正12年)以降には、彼女を供養するという意味合いが加わったと想像される。 発泉小学校は石狩東小学校に統合されて現存していないが、21世紀初頭の観音講は北生振ふれあい研修センターを会場として継続している。また、昭和前半までの記録を欠いているため古い時代の観音講について知ることができない中、同センターには1959年(昭和34年)以降の講にまつわる寄附帳が残されており、当時の活動の詳細を伝える資料となっている。
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