製鉄と製鋼
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近代における鋼の生産は、先ず赤鉄鉱や磁鉄鉱など採掘された酸化鉄である鉄鉱石を高炉で還元させて銑鉄を得る。縦長の高炉上部から、鉄鉱石・コークス・石灰石を投入し、下部から熱ガスと空気を送り込んで800℃以上を維持するよう燃焼させる。これにより、コークスから発生する一酸化炭素が酸化鉄を還元させて銑鉄が得られる。この工程は高炉の耐久性限界まで連続して行うのが通例である。 高炉で得られた銑鉄に含まれる炭素など不純物を次の製鋼工程で取り除く。ここでは、ケイ素、リン、硫黄などを除去し、炭素の含有率が0.5 - 1.7%程度に調整される。この方法には転炉と平炉が使用された。
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製鉄と製鋼
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「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史」の記事における「製鉄と製鋼」の解説
鉄は純粋な金属としては自然界に存在しないため、不純物を取り去り強度を上げるために熔解精錬しなければならない。植民地時代は塊鉄炉が普通であり、少量の鉄の塊を生産し、土地の需要に合わせて鍛冶屋が製品にした(馬蹄、斧の刃、鋤)が、輸出や大規模製品(銃、造船、車輪)には向かなかった。17世紀半ばには大規模の自給自足プランテーションに銑鉄を作る溶鉱炉が現れてこれらの需要に応えたが、生産した鉄は高価であり、重労働を必要とした。溶鉄炉、加熱炉および水車を造る必要があり、森を伐り払って木材を木炭にし、鉄鉱石と石灰石を掘り出して輸送する必要があった。18世紀の終わりまでに、森林破壊を恐れたイギリスは石炭から得られる燃料のコークスを使用して炉を燃やすようになり、これが後にアメリカでも採用された。この転換で希少になりつつあった木材を大量に扱う必要が無くなり、鉄の価格を下げることができた。 鋼は鉄の一形態であるが、歴史的に鋼と鉄の製造上は異なる製品と考えられ、鋼は錬鉄よりも高い価格になった。18世紀と19世紀初期を通じて、イギリスの製鋼業者は浸炭鋼やるつぼ鋼を生産し、精錬炉やパドル炉のような特殊装置を必要としたために英トン(1英トン=1,016 kg)当たり50ポンド以上のコストになった。18世紀に蒸気船、鉄道および銃などの技術革新が鍛鉄と鋼の需要を高めた。1850年代、アメリカ人のウィリアム・ケリーとイギリス人のヘンリー・ベッセマーが別々に溶融鉄に空気を吹き込む方法を発見し、その温度を上げて不純物を取り出すことを容易にした。この「ケリー=ベッセマー法」は、送風に必要なコークスの量を減らしたので最終製品の質を向上させ、高品質鋼の大量生産の道を開き、鋼価格を劇的に下げたので、その用途も拡がった。 1868年アンドリュー・カーネギーは最近開発されたケリー=ベッセマー法と新しいコークス製造法を統合して、鉄道用のレールを供給する機会を見出した。1872年、カーネギーは幾つかの鉄道幹線が集まるペンシルベニア州アレゲニー郡ブラドックに製鋼所を造った。カーネギーはこの垂直統合を始めたことで莫大な利益を得た。ミネソタ州には鉄鉱石鉱山を所有し、五大湖の輸送用蒸気船、炭坑とコークス炉、および石炭や鉄鉱石をペンシルベニアの製鋼所まで運ぶ鉄道も所有した。1900年までにカーネギー製鋼会社はイギリス一国よりも多くの鋼を生産した。1901年、カーネギーはJ・P・モルガンのU.S.スティールに事業を譲渡し、個人的に4億8千万ドルを手にした。
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