脇本城跡とは? わかりやすく解説

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脇本城跡

名称: 脇本城跡
ふりがな わきもとじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 秋田県
市区町村 男鹿市
管理団体
指定年月日 2004.09.30(平成16.09.30)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 脇本城跡は秋田県中部日本海突き出た男鹿半島付け根南岸丘陵上に展開する大規模な山城で、中世末の安東氏居城である。安東氏津軽地方豪族であり、鎌倉時代北条得宗家仕えた代官蝦夷管領勤めた。その勢力津軽地方から北海道南部に及び、秋田地方にはその一族である檜山安東氏、湊安東氏それぞれ北部檜山城中部秋田湊城拠点置いた安東愛季元亀元年(1570)頃に安東氏統一して既存の城を改修して脇本城築いた脇本城廃城になったのは天正18年(1590)、秀吉奥州仕置から慶長7年1602)の佐竹氏による久保田城築城の頃と考えられる
脇本城跡は日本海面した標高100m前後丘陵上に展開する。海に直角に突き出た生鼻崎の斜面は白い崖面を見せて象徴的であり、ここから連続する丘陵南北約2km東西1.5km範囲をもつ。城跡からは南に日本海遠く鳥海山、東から北にかけては八郎潟から檜山地方、西には男鹿半島山々見渡せる。城跡直下海岸には脇本港がある。
男鹿市教育委員会では平成5年度から縄張り調査継続し平成12年度から発掘調査実施してきた。その結果、内館地区、馬乗場古館地区、兜ヶ崎地区の3地区主な遺構分布することが確認された。内館地区日本海に最も近く分布する遺構大規模であり、城郭中枢をなす。谷を囲む丘陵尾根大規模に階段状に造成して一辺数十規模方形呈する郭が連続して配置される。郭には高い土塁囲み今も窪みとして残る井戸見られる。馬乗場地区丘陵中央位置する広く整地行い、T字状に直線道路敷設してこれに面して方形屋敷配置される。兜ヶ崎地区東側独立した丘陵立地し方形呈する主郭周囲階段状に郭が造成されている。
丘陵東側の裾には前身法蔵寺に愛季が葬られたと伝えられる境寺、愛兄弟開いたとされる本明寺などが存在するまた、日本海沿った平地には、直線道路短冊形地割連続する脇本集落があり、城下集落として機能していた可能性がある。
出土遺物中国産の白磁青磁染付、褐釉、国産では瀬戸美濃焼能登珠洲焼越前焼など1516世紀のものが確認される
安東氏蝦夷島を含む日本海北部勢力伸ばして活躍したが、脇本城跡は日本海交通の要衝の地に位置し直下に港を備えており、安東氏活動拠点としてふさわしい大規模な山城である。城跡関係する寺院群や城下集落含めて広大な城域環境・景観とともによく保存されている。よって、寺・本明寺を含めた城跡史跡指定し保護図ろうとするものである
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史跡:  胆沢城跡  能島城跡  能登国分寺跡  脇本城跡  興国寺城跡  興福寺旧境内  舞木廃寺塔跡



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