細川綱利
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細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥後国熊本藩3代藩主。熊本藩細川家4代。
- ^ 『金玉ねぢぶくさ』卷之五 「血達磨の事」
- ^ 47人目の寺坂信行は討ち入り後に隊から外れた。
- ^ 「神崎則休はけだもののような恐ろしい顔だった」と書かれている。
- ^ 浅野長矩と武林隆重は、二度斬りの遺体確認がされており、それに因む遺構が泉岳寺に現存する。
- ^ “内蔵助介錯の刀も「元禄赤穂事件」展”. 赤穂民報 (2019年12月13日). 2023年11月24日閲覧。
- ^ 泉岳寺『白明話録』
- ^ 赤穂市『忠臣蔵』第一巻
- ^ 菊地 2002.
- ^ 大谷木醇堂『醇堂叢稿』、『旗本御家人』 200~210頁。人違い説もあるが、刃傷の動機は同様に逆恨みによる遺恨とされる。
- ^ a b 「肥後細川家侍帳」「肥後細川藩拾遺」
- ^ 農地からの作物を売り、その金で供養を続けるよう頼んだという。(『旦夕覚書』)
- ^ 「広報やまが」2020年7月号(宗教法人「平成堀口組」)
- ^ 駒澤大学名誉教授・廣瀬良弘『禅宗地方展開史の研究』など(金石文『曹洞宗全書』より)。明治に民間から海外に流出したとされる(ウイーン美術館)
- ^ 中島康夫「赤穂義士御預始末 永青文庫特別展」中央義士会、57号、2007年
- ^ 井田泰人「熊本時代の大塚磨について」近畿大学民俗学研究所、民俗文化 (28)、2016年
- ^ 「港区環境美化の推進及び喫煙による迷惑の防止に関する条例」
- ^ 「武家諫忍記」大聖寺本(加賀市立博物館)
- ^ 「大名評判記」池田本
- ^ 『細川家文書』「細川綱利公御年譜」など
細川綱利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
熊本藩細川家4代目の細川綱利は、若くして赤穂藩の藩主となった浅野内匠頭の後見をしていたとされる。 関係を示す史料としては、細川綱利の事績を記録した『御家譜続編』があり、そこには「十三箇条の諌言書」が納められている。 そうした関係もあり、細川綱利は大石内蔵助以下17名の赤穂浪士を請取り、主君に忠を尽くした赤穂浪士を厚遇した。 細川家での赤穂浪士の待遇は行き届いたもので、細川家に着いた晩に、一同には小袖二枚ずつ与えられ、歳暮には更に一枚と帯などが与えられた。 食事は手のかかった御馳走で、二汁五菜のほか、菓子や夜食なども出され、後には酒まで出された。酒は「薬酒」という名目で出された。 あまりの御馳走に、大石を始めとした赤穂浪士の面々から、「我ら浪人して軽い物ばかり食べており申したが、当家に参ってからは結構な御料理ゆえ、腹にもたれてなりませぬ。唯今は麦飯に塩いわしが恋しくなり申した。何卒御料理を、軽い物にお願い申したい」と申し入れがあった。しかしながら、世話をしていた堀内伝右衛門が料理方に掛け合ったが、料理方は怒り出す始末で、ついに一同の希望は実現されなかったという。 風呂や手水場の取り扱いも丁寧で、風呂の湯は一人ごとに変え、手水の際には、一人ずつ坊主が水をかけた。 これらのあまりにも丁寧すぎる処遇に、赤穂浪士達から簡略にしてほしいと申入れを行ったほどだった。 細川邸では、潮田や両大石(良雄・信清)らは、羽目を外して夜に狂言踊りなどをして騒ぎ、提供された酒を接待役の堀内に、たらふく飲ませて酩酊させたりしている。最後の日には堀内が酒の肴や煙草、下戸向けの茶や菓子を出さなかったので義士たちから文句が出た。切腹の当日には、堀内は上使が到着する前に義士を放置したまま帰宅してしまった。途中で同僚に捕まり、馬で連れ戻され義士に最後の奉仕をしている。(細川家文書『堀内伝右衛門覚書』) 義士らの切腹は白金屋敷の大書院の舞台脇、手水石の向かいで行なわれた。その後、赤穂浪士達がいた大書院の間を清めようと畳替えをすることになったが、細川綱利は「十七人の勇者共は御屋敷のよき守神」として、畳を替えることを許さなかった。 一方、お預かりの他の三家は仙石久尚からの「長屋に差し置くべし」との指示で、全員が使っていない部屋にまとめて収容された。外から戸障子などを釘付けにされ罪人として厳しく扱い、切腹後も場所を清め畳なども処分している。仙石家に至っては畳から障子まで全て替えたからであった。この後、細川綱利は気心の知れた客人には切腹の場所を名所として見せたという。ただし、その後、諸事情(綱利の血統断絶・屋敷が焼失・江戸城で熊本藩主惨殺・伊達家との交際開始など)により細川氏の態度が豹変し 、遺構は破却・散逸したが、堀内氏は遺髪の一部を分与されており、山鹿市の日輪寺は、内密に浪士の菩提を守り続けて今日に至る。山鹿市は赤穂市の義士祭にも招待され、当地でも例年、「山鹿義士まつり」が実施されている(2022年2月時点では、日輪寺関係者による義士への供養だけとなり義士まつりは中断している)。
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