系譜についてとは? わかりやすく解説

系譜について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 16:34 UTC 版)

諏訪直性」の記事における「系譜について」の解説

諏訪直性系図上で位置、すなわち直性の実名(諱)については、細川重男による考証がある。細川見解としては、『系図纂要』等の「諏訪系図」には、盛経の子として諏訪宗経ほか数名掲載されているが、宗経に関して比較信憑性が高いとされる尊卑分脉』にも記されているので実在した人物判断し、その名乗り幕府執権得宗家当主北条時宗と父・盛経よそれぞれ一字受けているものとみられることから、宗経が盛経の嫡子、すなわち後継者としての地位認められ存在であったとされ、従って同じく盛経の後継者であったとされる直性(前述参照)と同一人物みなしている。加えて、妻が北条貞時娘の乳母勤めていることから、宗経は貞時のほぼ同世代人であり、更に『太平記』記事中摂津親鑑を「若者」、直性自身を「年老」と称している場面見られるため、直性を宗経の子とするよりは、宗経と同世代人、或いは同一人物とみなす方が妥当との見解示している。直性は左衛門左衛門入道と、『系図纂要によれば宗経は三郎信乃守(信濃守)を称したとされている。 ちなみに細川その後の研究で直性の実名諏訪宗秀(むねひで)と訂正しているが、『武家年代記裏書』や『尊卑分脉』・『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』等の「諏訪系図」と、前述の「宗経」の名が複数箇所見られるのは無視できないであろうから、特に誤りなければ宗経と直性の間に名乗っていた諱とみるべきである。 尚、宗経(直性)の息子については、『系図纂要』では頼重初め盛隆)・弘重・盛時・盛世が掲載されているのに対し細川示した見解によれば新左衛門尉某と盛高(通称三郎)が挙げられている。

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系譜について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)

劉備」の記事における「系譜について」の解説

劉備前漢景帝の第9子、中山靖王劉勝(? - 紀元前113年没)の庶子劉貞末裔という。劉勝の子と孫を合わせる120人以上になり、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年涿郡涿県列侯として陸城亭侯の爵位賜った。だが、紀元前112年年始正月)頃に、彼は列侯のみに課され漢朝の上納金酎金)を納めなかったために、侯国除かれ史書系譜もそこで止まっている。 また、先主伝」注に引く『典略』では、劉備臨邑侯の庶流記されている。 景帝劉勝劉貞 以後系譜不詳『三国志』蜀書先主伝)景帝常山憲王劉舜-真定頃王劉平真定烈王劉偃-真定孝王由-真定安王劉雍-真定共王劉普-臨邑劉譲(『典略』/下記系譜も同様)景帝長沙定王劉発-舂陵節侯劉買-鬱林太守劉外-鉅鹿都尉劉回-南頓県令劉欽-斉武王劉縯北海靖王劉興臨邑劉復臨邑侯劉騊駼 フィクションである『三国志平話』および『三国志演義』においては、中山靖王劉勝その子の陸城亭侯・劉貞以後系譜は、劉貞の子の劉昂は沛侯、その子の劉禄は漳侯、その子の劉欒は沂水侯、劉英は欽陽侯に封ぜられ、劉貞以後数代列侯爵禄受けたものの、家運衰退により劉備父母の代には沓売りや蓆売りにまで零落するも、劉備の代に献帝拝謁し漢の宗親認められ左将軍宜城亭侯に封ぜられ、その後後漢の滅亡により蜀漢興しその皇帝として君臨したとされている。これは一部除いて創作である。 なお、漢代の復除(徭役免除)を研究している山田勝芳は、延熹2年159年以降属尽称されていた宗室資格失った歴代皇帝の子孫は各種免税特権受けていたことを指摘し劉備幼少期の逸話一族集住学資援助を受ける話)は彼が属尽一員として一族集団保護受けていた(一族団結官吏外部人々特権存在明示する手段になる)、すなわち彼が属尽であっても宗室の家に連なるであったことを確認できる証明なるとしている。

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系譜について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 00:00 UTC 版)

細川持隆」の記事における「系譜について」の解説

従来若松三郎等の説により持隆は細川之持の子明応6年1497年生まれ細川晴元従弟にあたるとされていた。 しかし近年馬部隆弘細川之持天文年間病死説を否定する過程で、『細川両家記享禄5年(1532年3月3日条に讃州(持隆)を晴元御舎弟と記していること、享禄4年1531年6月成立とする『細川高国晴元争闘記』という史料にも持隆が享禄4年1531年当時15歳16歳であるという記事見出し、持隆が永正13年1516年)または同14年1517年生まれである可能性があり、その場合、持隆は永正9年1512年)に没した之持の子ではないことになると指摘した同時に現行の『尊卑分脈』にも之持の子記述がなく、之持と持隆を父子とするのは後世編纂された系譜類のみであるとした。馬部は持隆は澄元の子晴元実弟正しく船岡山合戦後に澄元が暫く高国との戦い控えた原因一つとして之持の後継者問題が決まらず阿波から離れられなかったことにあると論じている。

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