系譜について
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諏訪直性の系図上での位置、すなわち直性の実名(諱)については、細川重男による考証がある。細川の見解としては、『系図纂要』等の「諏訪系図」には、盛経の子として諏訪宗経ほか数名が掲載されているが、宗経に関しては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脉』にも記されているので実在した人物と判断し、その名乗りが幕府執権・得宗家当主の北条時宗と父・盛経よりそれぞれ一字を受けているものとみられることから、宗経が盛経の嫡子、すなわち後継者としての地位を認められた存在であったとされ、従って同じく盛経の後継者であったとされる直性(前述参照)と同一人物とみなしている。加えて、妻が北条貞時娘の乳母を勤めていることから、宗経は貞時のほぼ同世代人であり、更に『太平記』の記事中で摂津親鑑を「若者」、直性自身を「年老」と称している場面が見られるため、直性を宗経の子とするよりは、宗経と同世代人、或いは同一人物とみなす方が妥当との見解も示している。直性は左衛門、左衛門入道と、『系図纂要』によれば宗経は三郎、信乃守(信濃守)を称したとされている。 ちなみに、細川はその後の研究で直性の実名を諏訪宗秀(むねひで)と訂正しているが、『武家年代記裏書』や『尊卑分脉』・『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』等の「諏訪系図」と、前述の「宗経」の名が複数箇所に見られるのは無視できないであろうから、特に誤りでなければ宗経と直性の間に名乗っていた諱とみるべきである。 尚、宗経(直性)の息子については、『系図纂要』では頼重(初め盛隆)・弘重・盛時・盛世が掲載されているのに対し、細川が示した見解によれば、新左衛門尉某と盛高(通称:三郎)が挙げられている。
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系譜について
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劉備は前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? - 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。劉勝の子と孫を合わせると120人以上になり、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として陸城亭侯の爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金(酎金)を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。 また、「先主伝」注に引く『典略』では、劉備は臨邑侯の庶流と記されている。 景帝-劉勝-劉貞 以後の系譜は不詳(『三国志』蜀書先主伝)景帝-常山憲王劉舜-真定頃王劉平-真定烈王劉偃-真定孝王劉由-真定安王劉雍-真定共王劉普-臨邑侯劉譲(『典略』/下記の系譜も同様)景帝-長沙定王劉発-舂陵節侯劉買-鬱林太守劉外-鉅鹿都尉劉回-南頓県令劉欽-斉武王劉縯-北海靖王劉興-臨邑侯劉復-臨邑侯劉騊駼 フィクションである『三国志平話』および『三国志演義』においては、中山靖王劉勝、その子の陸城亭侯・劉貞以後の系譜は、劉貞の子の劉昂は沛侯、その子の劉禄は漳侯、その子の劉欒は沂水侯、劉英は欽陽侯に封ぜられ、劉貞以後の数代は列侯の爵禄を受けたものの、家運の衰退により劉備の父母の代には沓売りや蓆売りにまで零落するも、劉備の代に献帝に拝謁し漢の宗親と認められて左将軍・宜城亭侯に封ぜられ、その後後漢の滅亡により蜀漢を興しその皇帝として君臨したとされている。これは一部を除いて創作である。 なお、漢代の復除(徭役の免除)を研究している山田勝芳は、延熹2年(159年)以降、属尽と称されていた宗室の資格を失った歴代皇帝の子孫は各種の免税特権を受けていたことを指摘し、劉備の幼少期の逸話(一族の集住や学資援助を受ける話)は彼が属尽の一員として一族集団の保護を受けていた(一族の団結は官吏や外部の人々に特権の存在を明示する手段になる)、すなわち彼が属尽であっても宗室の家に連なる者であったことを確認できる証明になるとしている。
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系譜について
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従来、若松和三郎等の説により持隆は細川之持の子で明応6年(1497年)生まれ、細川晴元は従弟にあたるとされていた。 しかし近年、馬部隆弘が細川之持の天文年間病死説を否定する過程で、『細川両家記』享禄5年(1532年)3月3日条に讃州(持隆)を晴元の御舎弟と記していること、享禄4年(1531年)6月の成立とする『細川高国晴元争闘記』という史料にも持隆が享禄4年(1531年)当時に15歳か16歳であるという記事を見出し、持隆が永正13年(1516年)または同14年(1517年)生まれである可能性があり、その場合、持隆は永正9年(1512年)に没した之持の子ではないことになると指摘した。 同時に現行の『尊卑分脈』にも之持の子の記述がなく、之持と持隆を父子とするのは後世に編纂された系譜類のみであるとした。馬部は持隆は澄元の子で晴元の実弟が正しく、船岡山合戦後に澄元が暫く高国との戦いを控えた原因の一つとして之持の後継者問題が決まらず阿波から離れられなかったことにあると論じている。
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