第二尚氏王朝とは? わかりやすく解説

第二尚氏

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/22 05:53 UTC 版)

第二尚氏(だいにしょうし)は、尚円王を始祖とし、尚円王即位の1469年成化6年)から1879年光緒5年)までの410年間、沖縄琉球王国を統治した王家およびその姓の通称。琉球最後の王朝。正式には尚氏だが、第一尚氏と区別するため、一般には第二尚氏と呼ばれる。初代・尚円王から最後の尚泰王まで19代にわたって琉球国王として続き、尚泰の代に琉球藩王となったのを経て廃藩後日本華族侯爵家に列した[2]




「第二尚氏」の続きの解説一覧

第二尚氏王朝(薩摩侵攻前)

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まんが首里城ものがたり」の記事における「第二尚氏王朝(薩摩侵攻前)」の解説

尚円内間金丸第一尚氏王朝末期泰久・徳の二代わたって仕える。だが、徳とは方針違いで溝が深まり1468年隠居直後、徳に反感持っていた勢力押される形で革命首謀者となり、1469年即位以降四百年余彼の一族国王となる。 懐機 明か派遣されて、国相として第一尚氏王朝支えた尚真 尚円王子幼名・マアカトダル。父の死後、彼が幼かったので叔父即位したが、それを不服とする母・オギヤカにより叔父から王位簒奪改めて彼が即位した彼の時代に(与那国島を除く)先島全域王府支配下にはいった。その一方で平和活動力を入れたオヤケアカハチ 尚真時代波照間島反乱を起こす鎮圧されてしまい、処刑された。 サンアイイソバ ほぼ尚真時代与那国島統治していた女首長オヤケアカハチ反乱鎮圧した王府軍が攻め込もうとしたが失敗してしまい、彼女の時代王府支配免れた

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第二尚氏王朝(薩摩侵攻~開国)

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まんが首里城ものがたり」の記事における「第二尚氏王朝(薩摩侵攻開国)」の解説

尚寧 第二尚氏王朝・7代目国王彼の時代薩摩来襲し、薩摩属国となった謝名親方 第二尚氏王朝・尚寧時代政府幹部最後まで薩摩抵抗したため、斬首される。 儀間真常 尚寧時代以降干ばつ苦し琉球救済すべく、産業振興をした。このころから木綿黒砂糖普及野国総管 尚寧時代以降儀間同じく干ばつを何とかしたい思い中国からイモ持ち帰りイモ普及蔡温 尚貞、益、敬、ぼく、温の時代活躍した政治家。清(中国)に留学して琉球立て直し尽力尚敬 第二尚氏王朝・13代目国王教育・文化振興力を入れた玉城朝薫 益の時代琉球芸能中興の祖となった人物尚温 第二尚氏王朝・15代目国王教育改革をしていたが、19歳夭折する尚灝 第二尚氏王朝・17代目国王彼の時代前後して琉球では不運多かったためか、思い詰めて精神病んだという。坊主世主と呼ばれたバジル・ホール 1816年坊主世主の時代琉球上陸した英国海軍士官琉球国内を視察しては、セント・ヘレナ流されナポレオン琉球の事を伝え驚かれた。 ベッテルハイム 1840年上陸した英国医師宣教師医療活動布教は「閉鎖的」な王府方針でしくじるが、「波上ガンジョー眼鏡)」として有名になった。

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第二尚氏王朝(開国~琉球処分)

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まんが首里城ものがたり」の記事における「第二尚氏王朝(開国琉球処分)」の解説

尚泰 第二尚氏王朝・19代にして最後国王。すでに宗主国となった日本明治政府)の圧力1879年廃位首里城追われたとき、「命どぅ宝」という言葉を残している。 マシュー・ペリー 1853年日本よりも前に琉球上陸したアメリカ海軍提督日本と同じ方法で「琉米修好条約」を結ばせた。同じ時期琉球フランスオランダとも条約結んだ市来四郎 薩摩藩士・砲術家1857年主君島津斉彬の命を受けて琉球へ。琉球王国巻き込んだ薩摩藩大改革決行、だが斉彬の急死計画中止(斉彬の弟・久光中立派であったが、保守強硬派である父・斎興の命令受けて中止させたという)。その結果牧志たち薩摩寄り役人糾弾されてしまう。 伊江朝直 琉球王族出身者尚泰叔父)で、役人1872年に「琉球代表として鉄道開業式参列して乗車するが、この時に尚泰は「藩王」に格下げされてしまう。 松田道之 琉球処分官。1875年王府に対して、「琉球薩摩鹿児島ではなく日本支配下に置くこと」を宣言琉球二分する騒動発展独立派は清の助け借りようとするが、失敗業を煮やした松田1879年尚泰引導を渡す形で「琉球」を完全に日本一部再編することを断行する李鴻章 清国幹部軍人として太平天国討伐成功して政治家となり西太后接近琉球独立派に助け求められるが、内憂外患それどころではなかった。

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