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せいたいこう 【西太后】
映画情報 |
西太后
| 原題: | 垂簾聴政 |
| 製作国: | 中国 香港 |
| 製作年: | 1984 |
| 配給: | 東宝東和 |
| スタッフ | |
| 監督: | 李翰祥 リー・ハンシャン |
| 製作: | 勝洪升 トン・ホン・ドウ |
| 呉平川 ウー・ピン・チュアン | |
| 製作総指揮: | 趙偉 チェオ・ウェイ |
| 脚本: | 楊村淋 ヤン・シン・ピン |
| 撮影: | 楊林 ヤン・リン |
| 湯姆森 タン・ムー・セン | |
| 音楽: | 葉純文 イエ・チェン・ジ |
| 美術: | 宋洪栄 ソン・ホン・ロン |
| 衣装(デザイン): | 趙茹華 チャン・ルー・ロン |
| 字幕: | 進藤光太 シンドウコウタ |
| キャスト(役名) |
| Liu Xiaoging 劉暁慶 リュウ・シャオチン (西太后) |
| Leung Ka Fai 梁家輝 レオン・カーフェイ (咸豊帝・文宗) |
| 陳燁 チェン・イエ (東太后) |
| 張樹義 (同治帝・穆宗) |
| 周潔 チョウ・チェ (麗己) |
| 項坤 シャン・クン (粛順) |
| 張鐵林 チャン・ティエ・リン (恭親王・奕訴) |
| 解説 |
| 19世紀の中国で絶大な権力を握っていた女帝・西太后の数奇な半生を描く。製作総指揮は趙偉(チェオ・ウェイ)、製作は勝洪升(トン・ホン・ドウ)と呉平川(ウー・ピン・チュアン)、監督は李翰祥(リー・ハンシャン)、脚本は楊村淋(ヤン・シン・ピン)、撮影は楊林(ヤン・リン)と湯姆森(タン・ムー・セン)、音楽は葉純文(イエ・チェン・ジ)、美術は宋洪栄(ソン・ホン・ロン)、衣裳は趙茹華(チャン・ルー・ロン)が担当。日本版ナレーション台本はたかしまちえこ。 |
| ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
| 1850年、中国。咸豊帝(梁家輝=レオン・カーフェイ)が清朝第九代皇帝の座についた。側室として宮廷入りした玉蘭、後の西太后(劉暁慶=リュウ・シャオチン)は才色兼備、若い娘に不似合な欲望を秘めていた。やがて咸豊帝の寵愛を得、帝の世継ぎ・載淳を産むに至って権力中枢への階段を昇り始めた。その頃、清朝は内に太平天国の乱、外の英仏連合軍の攻撃侵略という難題をかかえ内憂外患の局面を迎えていた。英仏軍の激しい攻撃をさけて、咸豊帝は北京を離れ離宮に移った。皇室全員もそれに従ったが、西太后は帝の実弟・恭親王(張鐵林=チャン・ティエ・リン)と手を結び権力拡大をはかり、帝の正妻・東太后(チェン・イエ)や粛淳(項坤=シャン・クン)ら八人の重臣と対峙していた。一方、北京では英仏軍の侵略はいよいよ猛威をふるい、彼らは広大な円明園を焼き払った。離宮では帝の死によって権力闘争がますますエスカレートし、西太后は帝の遺体を北京に運ぶことによって再び帝都に帰還することを主張、我が子・載淳の戴位ももくろんだ。北京到着直後、西太后は恭親王の兵士たちに八人を逮捕させ牢獄にぶち込んだ。粛順は民衆の眼前で極刑、残る七人もそれぞれの刑で粛清した。その他、生前の帝が愛した麗妃(周潔=チョウ・チェ)を両手を斬り落とした上、大きな水ガメに詰め込んだ。かくて、西太后の敵はことごとく消え、わずか六歳の載淳が清の第十代皇帝同治帝を即位する。そして簾の向う側に東太后と西太后が控え、清朝を操りはじめた。が、東太后は無力だ。西太后はその野望ゆえに東太后をも毒殺し、我が子同治帝までも謀殺した。 |
続・西太后
| 原題: | 西太后 |
| 製作国: | 中国 香港 |
| 製作年: | 1989 |
| 配給: | 東宝東和 |
| スタッフ | |
| 監督: | 李翰祥 リー・ハンシャン |
| 製作: | 張寧英 |
| 勝洪升 トン・ホン・ドウ | |
| 原案: | 王樹元 |
| 脚本: | 李翰祥 リー・ハンシャン |
| 撮影: | 趙楽天 |
| 趙暁峰 | |
| 音楽: | 王憲 |
| 美術: | 牟徳国 |
| 陳燕 | |
| 編集: | 方寶華 フォン・ボーワー |
| キャスト(役名) |
| Liu Xiaoging 劉暁慶 リュウ・シャオチン (西太后) |
| 陳燁 チェン・イエ (東太后) |
| Chen Dao Ming 陳道明 チェン・ダオミン (同治帝・載淳) |
| Gong Li 鞏俐 コン・リー (桂蓮) |
| 解説 |
| 中国・北京の大宮殿・故宮にロケしての宮廷絵巻風史劇で、監督及び主要キャストは前作「西太后」と同じ、内容的にも前作とかなり重複するが、今回は西太后の性生活などもわずかではあるが描いている。 |
| ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
| 清朝第十代皇帝・同治帝(陳道明)の実母として権力をふるう西太后(劉暁慶)は、帝が愛した桂蓮(鞏俐)を遊女へと追いやるが、帝は桂蓮に会いに行き悪病に冒されて死ぬ。西太后が帝の身重の妻・毅皇后の腹を足蹴にして流産させようとしたのを激怒した先帝の正室・東太后(チェン・イエ)は、先帝からの勅命を下そうとするが、西太后は空涙で東太后を丸め込み勅命を燃やさせてしまう。もはや怖いものなしの西太后は東太后を毒殺、自分の妹の子供を第十一代皇帝に祭り上げ、再び清朝の実質的権力を獲得、身重の毅皇后を大戯台に海老吊りにして地面に叩きつけ、子供ごと惨殺するのであった。 |
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西太后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/26 11:15 UTC 版)
西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ) 。
中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。
紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。
- ^ 当時習慣性流産に苦しんでいた西太后は、不妊治療の効果が高いとされた生薬阿膠の服用を薬師に勧められ、その結果載淳(のちの同治帝)を身籠ることができた。以降、重度の更年期障害に悩んでいた際にも服用を続けている。
- ^ 皇帝や天皇の結婚を意味する。
- ^ 川島真『近代国家への模索1894-1925』7頁、シリーズ中国近代史②、岩波新書、2010年。
- ^ 雷家聖の学術的な研究成果は、「戊戌変法時期的借才、合邦之議:戊戌政変原因新探」(『歴史月刊』181期,台北:歴史月刊社,2003)、『力挽狂瀾:戊戌政変新探』(台北:萬卷楼,2004)、「書評:茅海建戊戌変法史事考」(『漢学研究』23卷2期,台北:国家図書館漢学研究センター,2005)、「失落的真相:晚清戊戌変法時期的合邦論與戊戌政変的関係」(『中国史研究』61,大韓民国:中国史学会,2009)などがある
- ^ Timothy Richard ,Forty-five years in China, Chapter 12
- ^ 楊崇伊「掌廣西道監察御史楊崇伊摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.461.
- ^ 楊深秀「山東道監察御史楊深秀摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。」
- ^ 宋伯魯「掌山東道監察御史宋伯魯摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政稅則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。…今擬請皇上速簡通達外務、名震地球之重臣,如大學士李鴻章者,往見該教士李提摩太及日相伊藤博文,與之商酌辦法。」
- ^ 大阿哥とは、この場合皇嗣子を指す。
- ^ 島崎(2010)pp.294-295
- ^ 中國新聞網2008年11月4日記事(中国語)
- ^ http://oldbeijing.org/dispbbs_11_47857_59938_skin1.html
- 1 西太后とは
- 2 西太后の概要
- 3 西太后の本名について
- 4 関連項目
固有名詞の分類
西太后に関連した本
- 西太后の不老術 (新潮選書) 宮原 桂 新潮社
- 西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書) 加藤 徹 中央公論新社
- 西太后と義和団事件―マンガ中国の歴史〈6〉 (中公文庫) 陳 舜臣 中央公論新社
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