第一次今市の戦い
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閏4月18日に大鳥圭介は第二大隊を率いて田島を出発し、20日に藤原に到着して同地を本陣とした。ここで副総督の山川大蔵と合流し、大鳥は進軍して小佐越に到着して諸隊長と会見した。会見で翌21日を期して今市を攻撃することが決定され、その作戦計画が立案された。作戦計画では、第三大隊の1小隊と貫義隊が今市東南東の大沢から今市に向かって攻撃し、第三大隊の主力は小百に出でて、同大隊の御料兵が小百西南西の高百付近の高地を占領して日光方面を警戒して、第三大隊主力の側面を援護させ第三大隊主力は小百から山地を超え、山地南側の瀬尾に出て大谷川を渡河して日光街道に至り、東面して今市を攻撃し一部が日光街道に留まって日光から増援するであろう新政府軍を阻止するという攻撃計画であった。本攻撃計画では第二大隊の第七連隊や会津藩兵は全く言及されていない。 閏4月21日、旧幕府軍及び会津軍は兵力を2つに分け日光街道の東西両方向から今市へ攻撃を始めた。先発の部隊は払暁に小百に至り、午前4時頃に予定通り2道に分かれて前進した。先ず大沢口から攻め入った山川副総督率いる部隊は、攻撃開始時の打ち合わせもしていなかった為後方部隊よりも早く今市前方に達して攻撃を開始する形となった。この時後方部隊3小隊はまだ大谷川を渡っておらず、大沢口方面の銃砲声を聞いて急いで攻撃に移ったが、この時既に大沢口方面の部隊は撃退されつつあり銃声は次第に止んでいった。旧幕府軍は攻撃の時機を完全に逸してしまった。後方部隊は尚も攻撃前進したが、土佐藩兵は兵力を増強し抵抗は時間を追うごとに強烈になり旧幕府軍の死傷は続出した。ここで旧幕府軍は3小隊程度では今市の攻略は不可能である事をようやく認識し、攻撃を断念して小百に敗走した。 この日土佐藩は敵襲を情報によって予知していたが、警戒態勢を取ってはいなかった。21日早朝に大沢道方面は三番隊が当番で警戒しており、警戒中に突如攻撃を受けた。三番隊隊長小笠原謙吉はすぐに事前に構築してあった胸墻陣地に籠って奮戦したが旧幕府軍は増加する一方であった。また、旧幕府軍は砲を有しており、砲撃も新政府軍苦戦の要因であった。土佐藩は銃声が激しくなってきたことから臨機に増援を派遣してこの危機を打開した。先ず控えの五番隊が一番早く準備を完了させ、三番隊の左翼に連繁して射撃を開始した。敵は依然優勢であり、土佐藩はさらに八番隊と断金隊が増援して三番隊の右に展開した。しかしこれでもまだ敵軍を制圧するには至らなかった。この危機を打開したのが四番隊隊長であった谷重喜である。谷は部下の集合が遅いことに立腹して半数の兵が集まった段階で前線に急行した。この時両軍は射撃戦の最中で、胸墻陣地によって射撃している土佐藩兵に情勢は有利であったため互角の戦況となっていた。谷率いる四番隊半隊は大沢堂右側の道を急速に前進して森林に入り、旧幕府軍の左側面に不意に現れて射撃した。精強な大鳥軍もこの奇襲攻撃には為す術もなく遂に敗退して、砲も放棄して逃走した。土佐藩兵はこれを森友村まで追撃した。 大沢道方面の旧幕府軍を撃退した後、今度は西正面の日光街道方面で戦闘が展開された。西正面は土佐藩九番、十番隊が担当しておりここにも胸墻陣地が有ったが守備部隊が当初2隊のみであった為苦戦した。この方面の旧幕府軍の一部は白兵突撃を敢行したが、これは胸墻手前で撃退された。西正面には支藩の斉武隊と四番隊半隊が来援したため旧幕府軍の陣地攻略は困難になった。さらに北村重頼率いる砲兵が来援し、後方から臼砲による砲撃を行った。土佐藩の増援は尚も送り込まれた。予備隊として控えていた一番、十二番の両隊が他の守備兵等を伴って旧幕府軍左翼に半包囲攻撃を展開したが、そこに最後の予備部隊であった七番隊と東正面から引き返した八番隊が加勢した。その結果西正面の新政府軍兵力は7小隊半と砲隊と優勢に転じ、後退する敵を大谷川を渡って山裾の江久保まで追撃して今市に凱旋した。 この戦闘で土佐藩兵は戦死3名、負傷者12名の被害を出した。旧幕府軍の損害は戦死6名、負傷者18名であった。この日の戦闘は板垣は壬生に出張して不在であった時に行われており、指導は片岡源馬、谷干城、祖父江可成の共同であった。 板垣は周囲の新政府側戦況の悪化を鑑み今市周辺に防御陣地を構築し、今市で旧幕府軍を迎え撃つ体制作りに着手した。新政府軍が防戦に専念した結果、今市は臨時の要塞と化しつつあった。
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