石油依存社会への警戒と多発するトラブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:17 UTC 版)
「日本の原子力政策」の記事における「石油依存社会への警戒と多発するトラブル」の解説
1972年当時、日本の原子力発電所の状況は、5基182万3000kW、全体の発電量の3%以下であったが、まだまだ小規模な運転停止が多く、渇水による水力発電の発電量の低下と、火力発電所から発生する光化学スモッグが社会的問題となっていた。また長引く中東戦争の影響で、原油価格も不安定であった。 日本の安定的なエネルギー確保を目的として、燃料確保からエネルギー効率の向上まで、日本のエネルギー政策を一元化するために1973年7月、通商産業省の鉱山石炭局と公益事業局が協力して、資源エネルギー庁が誕生する。 1973年11月、第四次中東戦争が勃発して、アラブ石油輸出国機構(OPEC)が原油価格を70%も引き上げたことから、日本にも深刻なオイルショックが到来し、国際的にも国内的にも代替エネルギーとして、原子力発電の重要性が高まった。日本の政策として原子力発電所が優先されたために、1975年には原子力の発電量は10基530万kWに拡大し、日本は(ソ連を除いて)アメリカ、イギリスに次ぐ、世界3番目の原発大国に成長した。 しかし建造した原子炉は、沸騰水型軽水炉では冷却水が流れるステンレス配管の金属疲労による亀裂、加圧水型軽水炉では蒸気発生器伝熱管の損傷によるタービン側への放射能漏れを中心とした、小規模な事故やトラブルで頻繁に停止したため、稼働率は40%に留まった。 さらに1968年5月、アメリカ海軍の原子力潜水艦「シーソードフィッシュ号」が、停泊中の佐世保港で高い放射能が検出されて全国的に報道され、原子力潜水艦の放射能漏れではないかと疑われたが、調査委員会は原因を不明と結論する佐世保異常放射能事件も発生した。最初は歓迎されていた原子炉の安全性が疑われはじめ、原発反対の住民運動が起こり、候補地の変更を余儀なくされることもあった。 1970年代には、反対運動がますます強まり、原発の反対運動による計画の遅れが課題となった。原子力船「むつ」も当初の定係港候補だった横浜港を抱える神奈川県横浜市が受け入れを拒否したため、青森県むつ市に変更された上、むつ市でも漁業補償問題がこじれて、地元漁業協同組合の反対を受けることとなった。 電力需要の上昇と、オイルショックによる原油の高騰および原発立地の問題を解決するために、日本国政府は1974年2月に、発電量に応じて発電事業者に課税し、発電所を受け入れた自治体への地方交付金とする、電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)の法案を提出し、同6月に国会で可決・成立させた。 原子力発電の交付金は、火力・水力より2倍以上の交付金が支給されるため、電源三法は原発立地促進の目的だったとされている(田中角栄内閣による日本列島改造論も参照)。ただし、結果的には新候補地確保よりも、既存地における地元自治体への迷惑料として機能したとされている。 電源三法が成立した直後の1974年9月、原子力船むつは漁民による海上封鎖の隙をつく形で出港し、出力実験中に放射能漏れ事故を起したまま母港から拒絶されて漂流する事態が発生した。この事故は全国的に報道され、状況は複雑なものとなった。相次ぐ原発反対運動に対抗し、電気事業連合会は頻繁に原発の安全性をアピールする有識者による広告を新聞掲載し、マスコミも反対運動の記事化を控える傾向にあった。 1976年、科学技術庁に原子力安全委員会が設置されたが、アメリカ合衆国原子力規制委員会のような強力な権限も持たず、またその規模も小さなものであった。
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