益田氏城館跡とは? わかりやすく解説

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益田氏城館跡

名称: 益田氏城館跡
ふりがな ますだしじょうかんあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 島根県
市区町村 益田市三宅町東町七尾町大谷町
管理団体
指定年月日 2004.09.30(平成16.09.30)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 益田氏城館跡は、島根県西端位置し益田川沿いの三宅御土居跡七尾城跡からなる益田市石見国代表する武士団益田氏本拠地で、益田氏関連文化財数多く残されている。益田市教育委員会は、平成2年度から13年度に三宅御土居跡七尾城跡発掘調査実施した
益田氏本姓藤原氏で、平安末期石見国司として下向し、在庁官人として国府周辺浜田市)に土着した。源平内乱期源氏方として活躍し建久年間(1190~99)に益田荘に本拠移して益田氏称し各地支族輩出して石見国最大勢力誇った14世紀中頃からは周防長門石見守護の大内氏従い15世紀後半応仁・文明の乱ののちに石見国一揆盟主となった天文24年(1555)に陶晴賢厳島の戦い敗死すると、姻戚同盟関係にあったために窮地に立たされたが、吉川元春仲介によって毛利氏服属し、以後毛利氏に従って各地転戦した慶長5年1600)の関ヶ原の戦いののち、防長2か国に減封された毛利輝元従い長門国須佐移った益田家文書等から、三宅御土居応安年間(1368~75)に築造され、天正11年(1583)に改修されたこと、須佐移住後跡地益田氏旧臣寺院創建したことが知られている。七尾城延元元年(1336)の文書初見し、天文20年(1551)に毛利氏との緊張関係のもとで大改修し、益田氏天正11年七尾城から下城して三宅御土居移ったとされる
三宅御土居跡は、益田川右岸標高約9mの微高地上に占地し、標高差は約2m測る堀内側の敷地東西190m南北約110mで、東側が北に突出した長靴形を呈し東西に高さ約5m土塁がある。東西の堀跡は幅10m、深さ2mから3m箱堀である。北堀跡は最大幅16m、深さ1.5mで、さらに北側に堀と平行する幅約8m川跡検出された。南側では幅20mから25mの川跡検出され益田川支流を堀として利用していた。12世紀から16世紀陶磁器出土し三宅御土居前身の施設存在したことがうかがわれる繰り返し建物建て替えられており、13世紀木組井戸跡16世紀礎石建物跡、石積井戸跡鍛冶場跡等が検出されている。
七尾城跡は、三宅御土居跡南東約900m、益田川左岸標高約118mの丘陵上に占地し、標高差約100m測る東西400m南北約600mの範囲大小40余り平場展開し6つ地区構成される大手道は北側に開く馬蹄形東西尾根の間の谷道を登る北東端と本丸跡南東側には畝状空堀群配し西側山裾には水堀跡が巡る。本丸跡では南端建物礎石落溝跡が、北端瓦葺き礎石建物門跡が、二の段北端では礎石建物跡、砂利化粧区画を伴う小庭園跡が検出された。13世紀から16世紀陶磁器出土し中国陶磁器16世紀第3四半期主体で、天正11年七尾城下城年代的に符合する本丸跡二の段跡は、ハレ儀式使用したかわらけ90程度占め城主の生活と儀礼の場であった推定される
益田氏城館跡は、豊富な中世文書伝えた石見国代表する中世武士団益田氏本拠地城館跡で、遺構遺存状態も極めて良好であり、中国地方歴史考え上で貴重である。よって三宅御土居跡七尾城跡を益田氏城館跡として史跡指定し、保存図ろうとするものである
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